まあじゃんほうかいき 6


そろそろ必要になるかもしれない麻雀の基礎知識2〜基本の役について〜

 前回の基礎知識「点数について」では、満貫から役満までの大きな役とその点数をご紹介致しました。ですがこんなの、よっぽどの技術や運がない限り、めったにできるモンじゃございません。他のゲーム同様、麻雀でもやはり、基本といわれる役の方がはるかに重要なのです。今回の話にはそんな「基本の役」も出てくることですし、以下、そのうちのいくつかを簡単に説明させていただきます(もちろん、全部丹念に読む必要はありません。役の名前をぼんやりとでも気に留めていただければそれで充分です。なお、説明にでてくる「数牌」「字牌」「山」等については本文冒頭、石原先生による説明をご参照下さいませ)。

門前清摸和(メンチェンチンモーホー)
 最初から最後まで一度もポンやカンやチー(どれも相手の捨てた牌を自分の手牌に加えることですが、ルールは微妙に違います)をしないで和がれば、それだけで一つの役になります。ですから当然、最後の当たり牌も自分がツモってきた(←山から取ってきた)牌でなくてはいけません。

立直(リーチ)
 あと一枚で役ができる、つまり和がれるという段階になったとき、「もうこれ以上手は変えない!」と宣言することです。宣言後はどんなに役立ちそうな牌が来ても、当たり牌でなければそのまま捨てていくしかありません。なお、これもポン、カン、チーをしている場合にはできません。

断公九(タンヤオ)
 数牌のうち一と九を除いた牌、すなわち二から八までの数字の牌(中張牌=チュウチャンパイといいます)だけで役を作ることです。この役はいくらポン、カン、チーをしていても成立します。

 基本の役には他にも平和(ピンフ)や三元牌の刻子(サンゲンパイのコーツ)等がありますが、煩雑なのでここでは割愛しました。これらはどれも役の大きさとしては最低の一翻、無事和がれても点数は1000点かそこらにしかなりません。役満の32000点に比べれば実に32分の1というほんのささやかなものですが、麻雀というゲームはとにかく「和がった人間が勝ち」なのです。たとえ役満を狙っていたとしても、先にメンチェンだのリーチだので和がられてしまったら一文にもなりません。
 なので。もし役満を狙ってて、あと一枚か二枚で和がれるはずの人間が、その直前、タンヤオか何かであっさり先に和がられちゃったりしたら相当怒り狂うと思われます。実は今回、それでいらん敵を作って地獄に落ちた人間が約一名…(これ以上はネタバレになるので自粛…と言いつつ邪笑)。



「それじゃまず、牌の種類から始めようね。いいかい、この丸い模様がついてるのが筒子(ピンズ)、細い棒みたいな模様が索子(ソーズ)、一萬、二萬…って漢数字が書いてあるのが万子(マンズ)。これらはそれぞれ一から九まで九種類あって、数を表しているから数牌(シュウパイ)と呼ばれている。それに対して、こんなふうに漢字一文字だけが書かれた牌は字牌(ツウパイまたはジハイ)と呼ばれ、東南西北白發中の七種類があるんだよ。もっとも『白』だけはその文字すらも書かれてなくて、ただの真っ白けな牌なんだけど…」
 傍らの少年に麻雀のイロハから丁寧に説明しつつ、石原医師の視線はついつい隣の―もう一つのテーブルを振り返ってしまう。それはもちろん真剣な表情で耳を傾けている生徒―ジョーも同じことだ。
 彼らが座っているやや大きめの作業机の隣、この研究室内で一番小さな(しかし麻雀卓としてはちょうどいい大きさの)机に陣取ったのは周と藤蔭医師、松井警視、そしてピュンマの四人。先の三人による史上最大麻雀大決戦が避けられない事態となったからには、残る「普通人組(この場合はもちろん普通のサイボーグも含まれる)」からも人身御供…もといメンツをを一人出さなくてはならなくなったわけだが、その人選がまた、聞くも涙、語るも涙の物語だったりして。
 はっきり言って、この三人を相手にするくらいだったら猛獣か妖怪変化と対戦する方がまだマシと言うか…安全なはず。そんな恐ろしい勝負に一体誰を参加させろというのか。ルールも何もまるっきり知らないジョーは論外として、ギルモア・コズミの両博士を犠牲にすることもまた、彼らの人としての心が許さなかった。こんな勝負にか弱い(?)老人を参加させたりしたら、最初の半荘(麻雀のゲーム一回分)が終わる前に絶対救急車…いや、霊柩車を呼ぶ羽目になるに決まっている。
 となれば残るはピュンマか石原医師…無言のまま顔を見合わせた若者二人、どちらも悲愴な覚悟を決めた表情を浮かべてはいるものの、さすがに自分から参加を申し出る勇気は中々出ない。
 暗鬱な沈黙が数十秒続いたのち、口を開いたのはピュンマの方が早かった。
「…それじゃ、僕が先に行きます。石原先生、ジョーのことは…いえ、後のことは全て、よろしくお願いします!」
「そんな、ピュンマさん!」
 慌てて引き止めようとした石原医師に、ピュンマはどこか寂しげな微笑を浮かべて。
「いいんです。こういう場合はやはり、体力・生命力ともに強化されているサイボーグの僕が行くのが筋でしょう…? それに正直な話、もし先生に何かあったら、あとに続く僕たちの介抱や手当ては一体何方がして下さるんですか?」
 石原医師はぐっと言葉に詰まった。この場にいる医者は決して自分一人ではない。周とて藤蔭医師とて、立派な医師免許を持っていることは間違いないのだ(おまけにたとえ精神科とはいえ藤蔭医師はれっきとした臨床医だし)。
 しかし今、彼女たちの関心は百パーセント麻雀に向いている。もしもこの先何かあったとしても、二人が下す診断といえば「そのへんに寝かしときなさい!」あるいは「放っときゃ治るわよ!」のどちらかだろう。
 もはや何も言うことができず、棒立ちになってしまった石原医師の手を最後に軽く握って―ピュンマはそのまま、もしかしたらかつて経験したどの戦いよりも過酷な戦場へと静かに赴いたのだった―。

 じゃらじゃらじゃら。やがて聞こえてきた牌をかき回す賑やかな音に、もはやこれまで、打つ手なし―と、一度は二人だけの麻雀講座を始めた石原医師とジョーだったが。
「今説明した牌が各四枚ずつ、合計一三六枚の牌をいろいろ組み合わせていくのが麻雀というゲームだ。最初は牌を伏せたまま、ああいうふうにかき回してね―トランプゲームでのシャッフルだと思ってくれればいい―その中から各自一三枚ずつ取って自分の手牌としたところでゲーム開始なんだけど―詳しいやり方は実際に見たほうがわかりやすいよね。もしよかったら…隣の勝負…見学させて、もらおう…か…」
 石原医師がそう言ったのはやはり、ピュンマのことが心配でたまらなかったからだろう。これまたもちろん、ジョーに異存があるわけがない。そこで二人は隣の四人に声をかけ「絶対に余計なことは言わない」と約束させられた上で背後からその勝負を見守ることにしたのだが…。
「牌がよく混ざったら、メンツ四人がそれぞれ適当に集めた牌を一七枚ずつ二段に積んだ『山』を作る。そしてその山の中からさっき話した最初の手牌、一三枚を取って…そのあとは親から順番に、山に積んである牌を一枚ずつ取って手牌に加え、代わりにいらない牌を一枚ずつ自分の前に捨てるんだ。そうやって牌を取り替えながら、勝つための『役』を作っていくというのが大まかな流れだね…」
 四人の動作を参考に、石原医師の解説が続く。実はこの説明、もっとずっと詳しく丁寧で、親の決め方やら一三枚の手配の取り方やら、細々としたルールをあれこれ話して聞かせてくれたのだけれど。
 正直、これ以上はまるっきりジョーの頭には入らなかった。ピュンマのことが気になって集中できなかった所為もあるが、それより何より―勝負が始まるやいなや、突然石原医師の声がか細く切れ切れになり、その内容も全くの支離滅裂、無意味な単語やうなり声の連続になってしまったからである。
 そう。なまじ麻雀を知っているだけに、彼は開始早々この対局のとんでもなさにしっかりと気づいてしまったのだった。
(うわ、松っちゃん! いきなり大三元(ダイサンゲン)…役満作りにかかってどーすんだよっ! まだ勝負は始まったばかりなんだぞっ…って、え? 周さんももしかして四暗刻(スーアンコ)…役満…作ってます…? ねぇっ! 藤蔭先輩っ! 何で先輩まで役満の四喜和(スーシーホー)やろうとしてるんですか! もしかして…手加減ってものを完全にかなぐり捨てちゃったんじゃないでしょうねっ! しかもみんな、あと二枚か三枚揃えば和がっちゃうってのは一体、何なんだぁー!!)
 ここですでに失語症と呼吸不全を起こしかけていた石原医師だが、それでも最後の気力をふりしぼり、よろめきつつもそっとピュンマの背後に立つ。そして恐る恐る彼の手牌を後ろから覗き込んだ瞬間、その症状には重度の不整脈が加わったのであった。
(ピュ…ピュンマさん…よりにもよってタンヤオで勝負ですか…? そうか…もしかしてピンフとの複合も狙ってます…? ああ…それって本当に手堅い、いい作戦ですよ…タンヤオもピンフも役の基本、まずはそこから狙っていくのが正しいプレイヤーの姿ですものね…。でもピュンマさん、残り三人はよりにもよって初っ端から役満で勝負かけてるんですよ…)
 いつしか涙さえ浮かべながら、心の中で必死にピュンマに語りかける石原医師。だが所詮テレパシーも脳波通信機も持たぬ生身の人間のこととて、どんなに必死に呼びかけようがピュンマの心には届くまい。やがてがっくりと肩を落とした青年医師は、いつしかその傍らで不安げに自分を見つめている少年に、虚ろな声でこう告げたのであった。
「島村クン…じゃ、僕らはまた二人だけの勉強に戻ろうか…。これ以上この勝負を見てたら、生きているのが…辛くなる…」

 しかしこのとき、失語症はともかくとして、呼吸不全と不整脈に見舞われていたのはピュンマも同様であった。
 勝負開始とともに卓に張りつめた緊張感は、ゲーム―すなわち遊びの領域を完全に超越していた。もちろん、ピュンマとてかなりの覚悟とともにこの場に臨んだのだが、それをはるかに上回る闘志と執念が、目に見えない無数の針となって、全身の皮膚にちくちくと突き刺さってくる。…こんな感覚は今までに味わったことがない。そう、たとえ明日をも知れぬ戦場、一瞬の油断がすぐさま死に直結するあの血生臭い弾丸の雨の中でも。
 ちらと目を上げて他の三人を観察すれば、誰も彼も負けず劣らず、燃え盛る炎の瞳で真っ直ぐに自分の手牌と山を凝視している。元から自分が勝つことなど夢にも考えていなかったピュンマだったが、こうなるとまた別の不安がじわじわと心に広がってくるのを抑えることができない。
(もしかしてこの勝負…僕はこの際置いといて、残る三人のうち誰かが大勝ちあるいは大負けしてしまったとしたら、一体この研究室…いや、ギルモア邸はどうなってしまうんだろうか…)
 のしかかる重圧感にみしみしときしむ肩を押さえつつ、とりあえず最初の手牌を山から取ってくれば、…おや。意外と悪くない組み合わせだ。あと三枚必要な牌が揃えばタンヤオのリーチがかけられる。そればかりか今後の流れ次第によってはピンフとの組み合わせも狙えるかも。
 タンヤオもピンフも麻雀の役としては基本中の基本、わりと簡単に作れるので点数は決して高くはないが、両方を組み合わせて点数を上げることもできるし、それからさらに難易度の高い役に変化させることもできる。それに麻雀に限らず、どのようなゲームでも―そればかりか戦闘時の作戦を練るときでさえ―最初からあまり高得点、大勝利は狙わないのがピュンマのやり方であった。短期決戦が避けられない場合はともかく、緒戦から全力でかかったりしたら、あとで必ず息が切れてしまう。そればかりか相手(敵)にもこちらの実力を必要以上に買い被られ、より防御を固めさせてしまう結果になるだろう。まずは相手の出方を見ながら軽く仕掛けて守りの薄い場所から徐々に突き崩し、機が熟したと見るや一気に猛攻撃をかけて叩く―これこそがピュンマの勝負哲学であった―とまぁ、それはともかく。
 ほんのわずかとはいえ、この思いがけない幸運はピュンマの心をいくらか軽くした。しかもなおラッキーなことに、続いてツモってくる牌はどれもみな、狙い通りの中張牌。あっという間にピュンマの手牌は、あと一枚でタンヤオが完成―和がれるところまでこぎつけた。残念ながらピンフとの組み合わせには失敗したが、ここでリーチをかければそれなりの点数が狙えるだろう。とはいえ決して「大勝ち」というほどでもないから、別にそうそう角が立つこともあるまい。
(どうせ最後は一人負けを覚悟してるんだし、一回くらい僕が和がったっていいよな…)
 そしてそのままかけてしまった「リーチ!」の一声。途端、残り三人の視線が針どころか槍の鋭さ、破壊力でピュンマに集中する。ピュンマの全身に、再び冷たい汗が流れた。
(あ…あのっ! リーチって言ってもこれ、決して大した点数じゃないからっ! ちょっと待って周っ! 瞳孔が半分戦闘モードになってるよっ! それから藤蔭先生も松井さんもっ! あの…僕は別にみんなにたてつこうなんて気は全然…お願いですからそんな、凶悪犯か悪霊でも見るような目で見つめるの、やめて下さいよぉぉぉっ!)
 もしかして、自分は状況を読み違えたのだろうか…言い知れぬ恐怖とほんのわずかな後悔が錯綜する中、再び順番が巡ってきて―恐る恐る、ピュンマはツモってきた牌をめくる。
(よかった…当たり牌じゃなかった…)
 安堵のあまりそこに昏倒しそうになったのもつかの間、あっという間に次の順番、できることなら今すぐにでも逃げ出したいのを我慢して、もう一枚ツモってくれば。
(うげ…)
 大きく目を見開いたまま、そこに固まってしまったピュンマ。そう、彼が引いてきたのはまぎれもない、当たり牌以外の何ものでもなかった…。
 「嬉しくもあり、嬉しくもなし」どころか、嬉しくなんて全然ない、むしろ空恐ろしいだけの勝利。だがここでわざとしらばっくれた場合の人間関係及びギルモア邸の運命、それより何より自分自身の命の保証は…あるわけがない。
 一秒の何分の一にも満たない、だが彼にとっては全身を八つ裂きにされ、地獄の業火に炙られるような苦悶と葛藤の末、ピュンマはとうとう覚悟を決めて、半ばヤケクソ気味に精一杯、「ツモ!」と声を張り上げたのであった。
 その結果についての詳しい記述は差し控えたい。読者の皆様方にはまことに申し訳ないことながら、正直作者にはこのときピュンマが味わった恐怖と衝撃と苦悩とを正確に描写するだけの力量も勇気も、ついでに根性も持ち合わせてはいないのである…。



 とはいえ、揃いも揃ってほぼ出来上がりかけた役満を、たかがタンヤオリーチツモであっけなくおじゃんにされた三人の心中は察するに余りある。少なくとも周と松井警視の表情を見れば、その頭のてっぺんまで上りきった血液がこれで完全に沸騰したことは一目瞭然であった。ただ、残るもう一人―藤蔭医師だけはあくまでもしれっとしたポーカーフェイスを保っていたが、どうせその胸中は他の二人と似たり寄ったりに違いない。
 ほんのささやかな幸運に気を緩ませたおかげで、グランドキャニオンか月面クレーター級の墓穴を掘ってしまったピュンマの辛く苦しい戦いは、まさにこの瞬間から始まったのであった。
「ポン!」
「カン!」
「チー!」
「ツモ!」
「ロン!」
 以後、室内に絶え間なく飛び交い始めた威勢のいい掛け声。だが、ピュンマの声だけは聞こえない。すでに彼の全身は、この勝負で迂闊に和がってしまうことの恐怖に骨の髄まで凍りつき、完全な金縛り状態に陥っていたのである。
 しかも困ったことに、自分一人が和がらないでいるだけではまだ、足りなくて…。
「あ、それロン! ジュンチャン三色ドラ一、ハネ満で一二〇〇〇点もらうわよ、騒音ゴリラ!」
「けっ! だったらこっちはタンピンリャンペーコドラ二で同じくハネ満でぃっ! 振り込んでくれてありがとよ、跳ねっ返り! さ、さっき払った一二〇〇〇、耳揃えて返してもらおうか!」
 周と松井警視がそれぞれ相手に振り込むたびに交わされる険悪極まりない応酬は全くもって心臓と精神衛生に悪い。もちろんそのあとには、振り込んだ側が怒りの歯ぎしりとともに、触れるどころか半径五十センチ以内に近づいただけで感電死するような凶悪極まりないオーラを発散するというおまけつきである。
 なのでピュンマは自分ばかりか周と松井警視の点数までも頭の中でしっかり計算し、あまりにその差が開きすぎたと思われる都度、その差を少しでも縮めるために、さりげなく―あくまでも偶然を装って、負けている方の当たり牌と思われる牌をわざと捨てたりもしていたのだった。そんなことをしていたらやがてはボロ負け必至だが、今のピュンマにとっては自分よりもこの二人どちらかの大負け、正確に言えばそのあと百パーセントの確率で吹き荒れるであろう怒りのハリケーンの方がはるかに恐ろしかったのである。
(え…と…確か今ので周が松井さんより六〇〇〇点リードしちゃったんだよな…だったらまた調整しておかないとまずい…松井さんの捨て牌から見て、当たり牌は多分、ピンズのどれか…。頼みますよ、松井さん…。どうかこれで和がって、ご機嫌直して下さいよね…)
 これを究極の自己犠牲と言わずして何と言うべきか。なのにそんな、ピュンマの骨身を削る気配りでさえ、かの猛獣二匹をおとなしくさせることはやはりできない相談だったようで。
「おし、ピュンマ氏のそれロンだ! ピンフイッツー、俺今回親だから五八〇〇点な。悪りぃ」
「いえいえ、僕の読みが甘かったんですからどうぞ、お気兼ねなく…」
 片手で拝む真似などしつつ、それでもその口元にかすかな笑みを取り戻してくれた松井警視にピュンマが安堵のため息をもらすよりも早く。
「あーら貴方、また八番目から和がったの? 初心者の青少年目の敵にして、随分な根性だこと」
 すかさず聞こえてきた周のあからさまな嫌味に松井警視の顔が朱に染まる。
「ほーぉ。言ってくれるじゃねぇか、跳ねっ返り。でもな、手前ぇにだけはンなこと言われる筋合いなんざねーぞっ! 自分だってついさっき、ピュンマ氏から満貫の八〇〇〇点ふんだくったくせによ!」
「冗談じゃないわ! 私が彼の捨て牌で和がったのはたったの二回だけでしょ! なのに貴方はこれで三回目。『弱いものいじめ』って言われても、仕方ないわよね〜ぇ」
「何だと、このアマ!」
「あら、やるっての? 面白いじゃない」
「うわ、周! 松井さん! やめて下さいっ。今はまだ勝負の途中で…それより何より、こんな狭い室内で取っ組み合いなんかやったりしたら…」
 ピュンマの嘆願も完全に馬耳東風の右から左、ぱっと席を蹴って立ち上がった二人はそのまま、傍らのほんのわずかなスペースで互いに身構え、睨み合う。
「ねぇ、藤蔭先生っ! 先生からも何とか言って下さいよっ…って、ひえっ!」
 たちまち吹っ飛んできた分厚いバインダーファイルから藤蔭医師をかばいつつ、決死の嘆願を続けるピュンマ。だが、その腕の中の女医がこの程度のことで動揺するわけがない。
「まぁまぁ、ピュンマさん。そう心配することないわよ。周だってバカじゃないもの、どうせコンピューターその他の精密機械にはちゃんとシールド張ってあるはずだから。それに御覧なさいな、彼女の姿…ちゃんと、いつもどおりの周じゃない。獣眼鉤爪の戦闘モードに入ったわけでもなし、大丈夫。彼女は決して手加減を忘れたわけじゃないわ」
 続いて飛んできたいくつかのディスクケースを右手だけで見事に全部キャッチしながら笑う藤蔭医師の声は、相変わらず小憎らしいほど平然としている。だが、松井警視渾身の力を込めた右アッパーをひらりとかわしつつその向う脛に猛烈な蹴りを叩き込んでいる周のどこに、手加減などという意識が残っているのだろうか。
「…大体、今日の周、変ですよ! そりゃ確かにさっき、松井さんとは一悶着あったけど…だからって、勝負が始まってからもこんなにしつこく絡むなんて、いつもの彼女らしくないっ!」
 言いつつ、またもや飛んできたノートパソコンをとっさに屈みこんで避けたピュンマの後ろ、さっと立ち上がった藤蔭医師がまたもや見事にキャッチする。…確かあのパソコンの重さは二.五kgか三kg、しかも吹っ飛んできた加速度つきのそれを左手で軽々と受け止めてしまうとは、やはりこの女医も普通の人間ではない。
「…やだわ、周ったら。メインコンピューターやそこに接続されているものはともかく、接続してないパソコンにはシールド張ってないじゃない。…ねぇ、周! お取り込み中悪いんだけど、機械類や附属部品のシールドだけは忘れないでね!」
「だから先生、そういうことじゃなくてっ!」
 なおも言い募るピュンマに、肩をすくめて振り向いた漆黒の瞳。
「やれやれ…貴方もまだ若いわね、ピュンマさん…。女心ってものが、ちっともわかってない」
「は…?」
「あのね、この連休にはアルベルトさんがドイツから帰ってみえるでしょう? 口にも顔にも出さないけれど、内心彼女、嬉しくてたまらないのよ。しかもそこに、アルベルトさん同様、彼女と対等に渡り合える松井さんって人まで出てきちゃったし…だから余計彼のことが懐かしくなって待ちきれなくなっちゃったのと、久々に気の合ういい仲間ができそうな予感についついはしゃぎすぎちゃってるだけ。でもそこが周の可愛いところなのよね。普段はこれ以上ないってくらい立派な大人なのに、嬉しいことがあるとすぐに無邪気な女の子みたいになっちゃうんだもの♪」
(か、可愛い…? 無邪気な、女の子…?)
 一体どこをどう押せばそんな言葉が出てくるのか。突如襲ってきた激しい頭痛にその場に崩れ落ちそうになったピュンマ。と、その耳に藤蔭医師がそっと唇を寄せて。
「…でもねぇ、そんなことよりピュンマさん。貴方、勝負は正々堂々とやらなきゃだめよ」
「え…?」
 振り返れば、気品に満ちた日本人形の優しげな笑み。
「貴方、さっきからずっと周や松井さんの点数見比べて、負けてる方をわざと勝たせてるでしょ。…その気持ちは私もわかるんだけど、どのような理由があれ、それは立派な八百長よ。ここまでは見逃してあげたけど、今度やったら…どうなるか、わかるわね…?」
 言い終えたと同時に表情を失い、不気味なアルカイックスマイルの妖怪変化に変貌した日本人形。
 この最後のトドメに、ピュンマの人工心臓は間違いなく数瞬の間、その機能を停止した。深海活動用とて、その耐久性と持久力においては仲間内でも一二を争うほどの強度を誇る、BG科学者陣の大傑作をたとえごくわずかな間でも作動不能にするとは、恐るべし藤蔭医師、いや周、そして松井警視…。

 幸いこのときの乱闘はすぐさま治まり、無事また和やかな(?)ゲームが再開されたわけだが。
 この半荘が終了するまでピュンマの生命反応が消えなかったのはまぎれもない奇跡、それ以外の何ものでも…なかったりする。
 


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