まあじゃんほうかいき 7


 厚さ一センチほどに切り分けたバゲットをオーブンレンジに並べながら、フランソワーズはふと顔を上げた。
「大分風が強くなってきたわね…いよいよ台風が本格的に近づいてきたのかしら」
「うわ、ほんとだ。…ねぇねぇフランソワーズ、そればかりじゃないよ。どうやら雨も降り出してきたみたい」
 その隣でゆで卵の殻をむいていた手を止め、キッチンの窓に駆け寄ったクロウディアが目を丸くする。
「これじゃやっぱり、今夜はみんな泊まりってことになっちゃいそうね。まぁでも、食料だけは昨日たっぷり買いだめしておいたから大丈夫よ。…かといって、あんまりご馳走を作るわけにもいかないけれど」
 今回の作業はきっと、かなりのハードワークになるはず。もしかしたら研究室に詰めている連中には、のんびり食卓を囲む暇すらないかもしれない。となれば当然食事も非常食というか炊き出しというか…仕事をしながらでも食べられるような、軽食風の献立を中心に考えなくてはなるまい。
 だが、自分たちのために懸命に働いてくれている人々に、そうそう物足りない思いもさせたくなかったフランソワーズは、手始めにカナッペ風のオープンサンドなど作ってみることにしたのだった。バゲットを使ったガーリックトーストの上に、輪切りにしたゆで卵やらオリーブやらチーズやらといった具をたっぷり乗せればかなりのボリュームになるだろう。加えて野菜や白身魚のフリッタータを添えてやれば、栄養的にもほぼ完璧だと思う。
(オープンサンドやフリッタータなら、最悪の場合手づかみでも食べられるしね)
 ちなみに今夜は、旬の茸一杯の炊き込みご飯で握り飯を作るつもりだった。おかずの方はまだ思案中だが、いざとなったらご飯の中に鶏肉や別の野菜もたっぷり入れて、味噌汁の一つも添えてやればよかろう。
ともあれ、昼食の下準備はこれで全て整った。あとは時間を見計らって実際に火を通し、最後の仕上げをしてやるだけである。
 ちょっと休憩でもしようかとフランソワーズがエプロンの紐を解いたとき、窓の向こうに青白い光が走った。次いで、家全体を揺るがすような凄まじい雷鳴。
「きゃああぁぁぁっ!」
 飛びついてきたクロウディアを軽く抱きしめてやりながら、フランソワーズは小さな耳元に向かってそっとささやきかける。
「大丈夫よ、クロウディア…ここにはちゃんと避雷針が設置されてるんだから。それに、屋根や窓だってみんなが徹底的に補強してくれたじゃない。どんな大嵐がこようが、びくともするもんですか」

 だが、外のそれよりもさらにとんでもない大嵐が、今まさにこのギルモア邸の地下研究室に吹き荒れようとしているのを忘れてないか、お嬢さん方。それとももしかして、その件にはわざと触れないようにしてるとか…? でもまぁ、そのへんについてはあまりしつこく追求しない方がいいのかもしれない(ただし作者は二人がわざと知らんぷりしている方に十万点←笑)。

 一方その頃、当の地下研究室では。
 第一回戦からして乱闘あり八百長あり、大魔神…じゃなかった妖怪変化の出現ありと、中々濃ゆい勝負を繰り広げていた麻雀組だったが、意外にもその後の二回戦、三回戦は至極穏やかかつまっとうな雰囲気の中で行われたのだった。
 それというのも、第一回戦終了と同時にピュンマが泡噴いてぶっ倒れ、一時はチアノーゼや脈拍低下まで引き起こしてかなりの重体に陥ったから、というのがそもそもの原因だったりする。
「ピュ、ピュンマさんっ! 大丈夫ですかっ! しっかりして下さい!」
「ピュンマ! 目を開けて! こんなところで死んじゃだめだよっ!」
 慌てて治療に取りかかった石原医師、そして涙交じりに絶叫するジョーの大声に、さすがの麻雀組もわらわらとピュンマの周囲に集まってきた。
 だが。
「あ…あ、ふーん。なるほどね」
「やれやれ。あの程度でぶっ倒れるなんて、近頃の青少年は軟弱で困るわぁ」
 石原医師の背後からピュンマを覗き込んだと同時に肩をすくめて回れ右、すたすたと卓に戻ろうとした周と藤蔭医師。それを目にした松井警視が、こちらはさすがに少々狼狽した様子でその背中を呼び止める。
「おい! あんたらだって医者なんだろ! ヒデ一人に手当て任しといてていいのか?」
 もちろん、そんな言葉にかの美女(…魔女とか鬼女のほうが正しいかも)二人が振り向くわけもない。
「それねぇ、過度の緊張が一気に解けたときによく出る筋肉の弛緩症状よ。別に、大した病気じゃないわ」
「ま、随意筋だけじゃなく不随意筋まにで多少影響出ちゃったのはちょっと重症かもしれないけどね」
 言いつつ、互いに顔を見合わせるような形でわずかに振り返った二つの艶かしい朱唇がまたしても奏でた二重唱。
「そのへんに寝かしときゃ、放っといたって治るわよ」
 ちなみにこのとき、先の自分の予想と寸分違わぬ台詞を聞いた石原医師が、人知れずついつい一筋の涙をこぼしてしまったことは言うまでもない。
 それはともかく、この大騒ぎに驚いたのは彼らだけではなくて。コンピューター制御をしていたギルモア・コズミの両博士までもが何ごとかと駆けつけてきたのであった。
「おいっ、どうしたんじゃ? 何だかえらく切羽詰った悲鳴が聞こえたが…」
「どうした、石原君! もしかして誰か、急病人でも…」
 そんな二人をそっと押し留めたのは幸か不幸か、例の美女二人組。
「大丈夫だから落ち着きなさいよ、ギルモアもコズミも。麻雀初心者の青少年が約一名、真剣勝負の緊張に耐えられなくなってぶっ倒れただけ。命には別状ないはずだから、心配しないで」
「周の言うとおりですわ、コズミ先生、ギルモア先生。それに、何といっても石原君がついているんですもの。彼の腕はお二人もよくご存知でしょう? ピュンマさんもすぐに回復なさいましてよ…」
 艶やかな笑顔と優しい口調にあっさり言いくるめられてしまった斯界の世界的権威コンビ。ああ、いかに優秀な頭脳といえども、人間、老いればやはり子供のごとく単純に、だまされやすくなってしまうものなのか…(涙)。
 しかし、石原医師の懸命の手当ての甲斐あって(それともあの美女軍団が言うとおり、初めから大したことはなかったのか)、ピュンマは程なく意識を取り戻し、危険な状態からも脱した。とはいえまだまだ完全復活には程遠い状態、そうともなれば石原医師がその傍らから離れることができないというのもまた至極当然のことで―本来なら次は石原医師がメンツに仲間入りするはずだったゲームもあわや中止になりかけたそのとき。
「…それじゃ次は、わしらが入れてもらうことにしようかのう」
「そうじゃな。コズミ君とわしが交代で入れば、半荘二回分の間、石原君はピュンマに付き添ってやることができるじゃろう」
「ちょ、ちょっとコズミ先生! ギルモア先生!」
 にこにこと顔を見合わせてうなづき合う老博士たちに、石原医師は絶叫した。もちろん二人は親切で言ってくれたのだろうが、ここで彼らがあの勝負に参加するようなことになったりしたら、ピュンマと自分の自己犠牲全てが無駄となってしまう。
 だが、顔面蒼白になった若き医師の叫びは、続いて起こった華やかな歓声にあっけなくかき消されて。
「まぁ、本当ですか!? 嬉しい! コズミ先生との勝負も久しぶりですね♪」
「ギルモアも、張々湖に仕込まれてかなりの腕だって言うじゃない。うわぁ、楽しみだわぁ」
 飛び上がらんばかりに喜んだ美女たちが、老博士たちを卓に誘う。
「じゃあ、まずはコズミ君からどうぞ。石原君はピュンマを診なきゃならんし、二人一緒に入ってはコンピューターの方がお留守になってしまうじゃろ」
「そうじゃな。ではお言葉に甘えて。わしの代わり、ギルモア君の相方はジョーくんに頼もうか。内部のデータ分析はともかく、コンピューター操作やプログラミングにかけては彼も中々の達人じゃからの」
 他にも、二人が入る代わりに周か藤蔭医師のうち一人がコンピューター制御に回るという選択肢があるはずなのだが、何故かそっちの方は誰の頭にも浮かんでこないらしい。
 そうこうしているうちに、いまだかすかに不安げな顔をしてピュンマの様子を見守っていた松井警視も周に襟首をひっつかまれて再びメンツに引きずり込まれ、いよいよ第二回戦の勝負が開始された。それをただ見ていることしかできないジョーと石原医師の胸中は察するに余りある。
 なのに、そんな彼らにさらなる追い討ちをかけるように。
「…それじゃジョー。すまんがちょっとこちらを手伝っておくれ」
 あくまでものほほんとしたギルモア博士の笑顔が、このときばかりは何故だかひどく恨めしい。救いを求めるように自分を見やったジョーに、石原医師は力ない―泣き顔だか笑顔だかわからない表情で、ただこう告げるよりほかなかった。
「…こうなったらもう仕方がない。…島村クン、ギルモア先生のお手伝い、よろしく頼むね。ピュンマさんとコズミ先生の方は、僕が責任持ってお世話する―いや、守るから―」
 それでもなお不安げに、何度も振り返り振り返り端末の方へと向かう少年を少しでも安心させてやろうと精一杯の笑顔で手など振ってやった石原医師だが、正直まともな笑顔が作れていたかどうかには自信がない。しかしまぁ、ジョーには加速装置があるのだし、何と言っても00ナンバー中最強のサイボーグなのだから、万が一のときには瞬時に逃げ出すなり自分で自分の身を守るなりはしてくれるだろう。それよりもいまだ満足に動けないピュンマ、そしてあんなメンツの中にのこのこ飛び込んだコズミ博士の方が心配だ。
(え…と。救急車は一一九番でいいんだよな。それとももし、霊柩車なんて騒ぎになっちまったら…僕のケータイ、葬儀社の電話番号まで登録してあったっけ…?)
 あまりに追いつめられた状況についつい余計なことまで考えてしまった石原医師。と、その袖口が誰かに引っ張られたような気がした。
(え…?)
 怪訝な顔で視線を落としてみれば、いまだぐったりと床に横たわったままのピュンマが、何か言いたげに必死に唇を動かしている。
「どうしたんですか、ピュンマさん! どこか…苦しいんですか!?」
 慌ててピュンマの口元に耳を近づけてみれば、弱々しいながらもはっきりとした声が聞こえてきた。
「石原…先生…。これからもし…僕の代わりに勝負に…参加したとしても…決して…和がっちゃ…い…け…ま…せん。それと…八百長も…ダメ…で…す…。さもないと…恐ろしい…おそ…ろ…しい、ことに、な…る…」
 言うだけ言って、ピュンマは再び目を閉じる。だが、その脈拍や呼吸はとりあえず平常値、特に心配する必要はなさそうだった。
(きっと、過度の緊張に精神が疲弊しきってるんだろうな…今はこのまま、少しでも休息をとらせてあげた方がいいのかもしれない)
 それでも床ではさぞ冷たかろう、固かろうといくつかの椅子を一列に並べて作った即席ベッドにピュンマを移す。体内に埋め込まれている機械のおかげで、見かけよりはかなり体重のあるピュンマだったが、平均的腕力を持った成人男性なら何とか一人で抱き上げることも可能だった。並べた椅子の上に横たわったピュンマの上に、そっと自分の上着をかけてやってようやく石原医師は一息ついたのだが、そうなるとやっぱり先ほどの言葉が気になってくる。
(和がってもダメ、八百長もダメなんて…それって結局、勝っても負けてもダメってことじゃないか。完全に矛盾してるよ。いつものピュンマさんらしくもない…)
 だが、喘ぎながらも懸命に訴えかけてきたその目の光、袖口にすがりついてきた凄まじい力から察するに、嘘や冗談を言っているとは到底思えない。あまりの不可解さに頭を抱え込み、低く唸った石原医師だったが。
「よし周君、それロンじゃ! タンピン三色ドラ四で倍満、悪いのう」
 突如上がったコズミ博士の大声に、危うく心臓を止めてしまうところであった。
(せせせ先生っ! 周さんから倍満和がるなんて、なんて命知らずな真似を…しかも相変わらず基本は超地味なタンヤオとピンフ…いやそれでも三色ついてるだけまだマシか。…でもねぇ先生っ! 僕はまだ、先生のご葬儀に参列したくなんかないんですよぉぉっ!)
 こうなったら、万が一の時には自分が盾となって恩師を守るしかないとまで思いつめた青年医師が、いざとなったらすぐ飛び出せるよう全身を緊張させて身構えたとき。
「あーあ。今回は完璧に私の読み違いだわ。それにしてもコズミ、貴方って意外と狸ねぇ」
 何と周が、小さく肩をすくめながらもにっこり笑い、素直に一六〇〇〇点差し出したではないか。第一回戦のときの、虎やヒグマ、ライオンでさえも裸足で逃げ出すようなあの凄まじい闘志はどこへ行ってしまったのだろう。
(一体、何がどーなってるんだ…?)
 激しく混乱し、呆然となった石原医師は、いつの間にか自分がその場にへたへたと座り込んでしまったことにさえ気づいてはいなかった。

 実はこれ、周ではなく全て藤蔭医師と松井警視のせいだったりする。
 たとえサイボーグや生物兵器ではないにせよ、二人がごく普通の一般人の範疇からは大きくかけ離れた存在であることは皆様もよくご存知であろう。特にその性格ときたら豪放磊落天衣無縫、傍若無人の破天荒…まさしく「歩く危険物」以外の何ものでもない(ちなみにそれは周も同じことだと思う←00ナンバー全員及びクロウディア、石原医師その他大勢による証言)。
 それでも何故かこの二人、目上の者に対する礼儀作法―長幼の序というヤツ―だけはかなりきっちりとわきまえていたのであった。
 そんな二人が、かつての自分の恩師、あるいは学会の世界的権威として偉大なる業績を積み上げてきた先人―コズミ博士に対して、失礼な態度などとるわけがない。さすがの周も、この猛獣あるいは妖怪変化仲間が二人ともおとなしくなってしまっては、燃え上がる闘志のやり場を失くしてしまうというものだ。
 もちろんそれは、仲間内及びブレイン中においてさえの最年長をもって任じ、さすがのギルモア・コズミ両博士さえも小僧っ子扱いしている周にとってはさぞ不本意だったに違いない。しかし彼女とて、頭脳明晰かつ思い切りも早い女である。藤蔭医師と松井警視がそのつもりなら、しばらくの間は自分もそれにつき合い―万が一大負けしたりしたときの鬱憤はそのあと仲間入りするであろうヒヨッコども相手に存分に晴らせばいいと、さっさと割り切ってしまったらしい。
 もちろんその事情は、半荘が終了してコズミ博士がギルモア博士にバトンタッチしたあとでも寸分変わることがなかった―。
 思いがけないつかの間の平和に、ほっと息をついた石原医師。だがその一方では言い知れぬ疲労と落胆、そして悲哀が心にも身体にもわきあがってきて―。
(こんなことなら最初から先生たちに麻雀に入ってもらって、僕とピュンマさんがコンピューター制御にまわればよかった…。ねぇ、ピュンマさん…僕たちのあの覚悟って、一体何だったんでしょうねぇ…)
 いまだ眠り続けるピュンマの手をそっと握った指に、ぽとりと落ちた涙の滴。
 そのとき、誰かが不意に石原医師の肩を叩いた。振り向けば、相変わらずにこにこと温和な笑みを浮かべたギルモア博士。
「石原君、すまんかったな。…おお、ピュンマも大分顔色がよくなってきたではないかい。これならもう、君がついていなくても大丈夫じゃろう。さ、今度は君の番じゃ。後はわしらに任せて、存分に遊んでおいで」
「ギ…ギルモア先生っ!!」
 石原医師の全身が強張る。…冗談じゃない。今あんなところに放っぽりこまれたら、今度は自分が霊柩車のお世話になりかねない。
「そ、そんな…っ! 先生たちこそ、ずっとコンピューター画面と睨めっこではお疲れになるでしょう。ももも、もう少し…息抜きをなさってから戻られては…如何ですか?」
「いやいや、あっちの方はさほど大した作業じゃないんじゃよ。バックアップディスクさえセットすればあとはみんなコンピューターがやってくれるでな。わしらはただ、要交換の表示が出た都度、ディスクを取り替えてやればいいだけじゃ。こちらはこちらで、コズミ君とのんびり茶飲み話などしておるで、若い者は若い者同士楽しめばいい」
 ああ、何とありがたくも思い遣りに満ちた恩師(正確には恩師の友人というべきだが、ギルモア博士と出会ってからの石原医師は、彼もまた自分の大切な師だと思っている)の言葉。しかし今回に限り、その優しさも気遣いも完全な的外れ、弟子にとってはほとんど死刑宣告に等しい。
「ああそうだ…なあ、石原君。そろそろジョーも実戦の仲間に入れてやってもらえんかね? 麻雀の基本はもう君がみんなあの子に教えてやったんじゃろ?」
「そんな、とんでもないっ! 島村クンはまだダメですっ! あ、あの、さっきのピュンマさんの騒ぎで、麻雀講座…途中で打ち切りになっちゃったもので…島村クンにはピュンマさんについててもらって、ピュンマさんが意識を取り戻したら残り…教えてもらってからの方が…」
 こうなったら、せめてジョーだけでも助けたい。石原医師は半ば祈るような気持ちで必死にギルモア博士に訴えかける。
「そうか…じゃ、交代のときにジョーにその旨伝えておこう。じゃあ石原君、頑張りたまえよ。あの三人は中々の雀士じゃぞ」
 からからと楽しげに笑いながらコンピューターに向かって歩み去るギルモア博士。その一歩ごとに自分の寿命が一年ずつ縮んでいくような気がして、いつしかわなわなと震え始めた石原医師の耳に聞こえたもう一つの声。
「さーて、次は石原君ね。貴方が入ってくれるんならメンツ全員気兼ねない仲間同士、全力で戦えるわ。貴方も遠慮なんかしなくていいんだから、頑張ってね」
 振り向けば、藤蔭医師が満面の笑みをたたえながら、優しく自分に向かって手招きしていた。
 


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