スカール様の慟哭 〜腹黒わんこ寝返り編〜 9


 戦況はその後もパピの予想どおりに進んでいきました。愛する少女の危機に理性も自制心もかなぐり捨てた暴走ゴ○ラ、いえ009のキレっぷりときたら大したもので、あっと言う間に003たちの元に駆けつけたかと思えば、押し寄せる在庫品部隊を片っ端から殲滅していったのです。もはや作戦司令部のディスプレイに映るのは爆発の閃光と黒煙ばかり、スピーカーから響く絶え間ない爆発音は聞く者の鼓膜をぶち破りそうでした。
「やれやれ…最後はかなり荒っぽい展開になっちゃいまちたけど、とりあえずこれで在庫品処分は完了でちね、お兄ちゃん」
 ようやくコンソールから前脚を下ろしたパピが振り向けば、横山くんも椅子の背にもたれてぐん、と大きな伸びをしております。
「うん、あともう十分もあればどれもみんなきれいに片づくよね。これもみんなパピちゃんのお手柄…ご苦労様でありました!」
 ぴしりと敬礼されてちょっぴり照れ臭そうになったパピがボグート氏に視線を移します。
「じゃ、ボグートのおじちゃん…あとはよろちくお願いしますでち」
「おう。奴らの現在地から推測するに、この基地を発見、潜入してくるまでの所要時間はおよそ二十分というところだろう。それだけあれば充分準備は完了するぞ」
 彼ら以外のBG幹部連はすでにそのほとんどが酔いつぶれ、ボグート氏によって脱出艇に放り込まれております。このまま自爆装置を作動させて残る皆が退避するための所要時間は数十秒かそこらで充分、、二十分もあればまさしく余裕綽々というものでしょう。
「自爆装置の作動タイミングにも変更なしでありますか、ボグート様」
「うむ。この作戦司令部は地下三階だから、かねての予定どおり奴らが地下二階の中心部…C‐1地区からC‐2地区に入ったあたりで作動させるのがベストだろう。では横山、最後にもう一度、基地内全人員の退避状況の確認を…」
 いまだディスプレイの中で続いている爆発をよそに、早くも次の手順の打ち合わせに入るボグート氏と横山くん。ところがそのとき、彼らの背後で一つの大きな黒い影がのっそりと―というより何とも頼りない足取りでふらふらと―立ち上がったのでございました。
「うわ、スカール! お前まだ酒が残っとるんだろう! いいからここはボグートと横山に任せて休んどれっ、おいっ!」
 続いて上がったシロオスラシ大佐の叫び声に、ボグート氏と横山くん、そしていまだコンソール前の椅子にちんまりとお座りしたままのパピがはっと振り向きました。そしたら何とそこには酔眼モーロー、酒臭いハナ息も荒々しく憤怒の形相となられたスカール様が仁王立ちになっていらっしゃるではありませんか。
「ス…スカール様っ」
「ご主人様っ」
 三人―いえいえ、二人と一匹(ああ、ややこしいっ!)が驚いたのももっともです。先ほど「一升瓶の一気飲み」などと言い出してボグート氏とシロオスラシ大佐を心胆寒からしめたスカール様ではいらっしゃいましたが、あれだけ立派にできあがったあとではさすがに無理だったと見えて、結局その場に座り込み、手にした一升瓶を固く抱きしめたまま大いびきで眠り込んでしまわれたのでした。そこでほっと胸をなでおろした幹部二人、すぐさま手分けしてシロオスラシ大佐がスカール様の介抱、ボグート氏はパピと横山くんの指導及び補助に当たり、この酔っ払い騒動も一件落着したと思っていたのに…。
 再び、皆の周囲に不安の黒雲がどんよりと漂ってまいります。ですが、そんなことに頓着なさるスカール様ではございません。
「ふぬぉぉぉぉ〜っ! 恨み重なるあの裏切者どもめっ、せっかくパピ坊があれだけ頑張ったというのに最後の最後でそのいじらしい努力を台無しにしてくれよってぇぇぇ…っ。一体どれだけ我々の邪魔をすれば気が済むというのだ、う〜いっ」
「し、しかしスカール様っ! 今回ばかりはそれこそが我々の作戦でもありましてっ…!」
「我がBGが心血注いで開発した新兵器、手塩にかけた大事な大事な作品をあーも遠慮なくぶっ壊しやがって、どれだけの資源と費用と人手のムダだと思っとるんだぁぁぁっ! ひっく! くっそぉ〜…あの、地球環境の大敵どもっ。ういっ」
「だからスカールっ! あれらが新兵器だったのは何十年も前の話でっ。今となってはどれもこれも立派な中古の不良在庫品、いつまでも後生大事に取っといたひにゃ、金利や保管費、取扱費、人件費その他の保管費用がはね上がって資金繰りを圧迫するばかり…」
「思い起こせばかの黒い幽霊島のときもそうだった…。そればかりではないっ! 東京湾でもベトナムでもエーゲ海でも地下帝国ヨミでもっ! ひくっ! ああ、あの口惜しさ、あの怒りと悲しみをまさか可愛いパピ坊にまで味合わせる羽目になるとは、俺は…飼い主としていや、パピの父ちゃんとして決して許せんぞぉぉぉ…う〜い、げぷっ」
「ご…ご主人様! いえ、お父ちゃん! しょんなことないでち! これは元々ボクがお引越しのために提案ちた作戦でっ…!」
 いくら酒のせいとはいえ、そのお言葉はあまりに意味不明、支離滅裂すぎます。思いがけない状況に慌てふためく横山くんとシロオスラシ大佐、そしてパピの様子を茫然と見つめていたボグート氏が、やがてぼんやりとつぶやきました。

「フラッシュバックだ…」

 あまりに多量のアルコールを摂取しすぎた人間、所謂ヨッパライが意識の混濁や記憶の混乱をきたすのはよくある話でございます。おそらくあの一気飲み宣言の時点で、スカール様の脳ミソはかなりの配線不良を起こしていたのでございましょう。故にさっさと顕在意識を放棄して休息に入った…すなわち眠り込んだところまではよかったのでしょうが、その後この作戦司令部には例の爆発音がひっきりなしに響いていたのです。それが潜在意識に働きかけて、かつて00ナンバーどもに煮え湯を飲まされた過去の記憶を呼び起こさないという保証はありません。しかも、あまりの轟音に耐えかねてふと目を開けてみれば、ディスプレイに映るのは味方の在庫品部隊を容赦なく破壊していく暴走○ジラ、いえ009の姿…。こーなったらもう、ただでさえへべれけの酒蒸し状態になっていた脳ミソがちょっくら接続間違って、その過去の記憶と現在の状況をごっちゃにしてしまったところで誰がそれを責められるというものでございましょうか…。

 ですがこんな小難しい説明なんざどーでもよござんす。そんなことより問題なのは…と作者がため息をつくよりも早く。
「パピ坊っ! お前の仇はこの父ちゃんが討ってやるっ。席を替われいっ! う〜いっ」
 いつもながらのマ〜ヴェラスかつ濃ゆい(というより今は酒臭い)お声で果敢に宣言なさったスカール様は何と、コンソール席からパピをぽーんと放り出し、しっかりきっぱりご自分がそこに陣取ってしまわれたのでした。
「うわ、パピちゃんっ!」
「横山! わしに任せろっ」
 幸い、とっさに加速装置を作動させてパピの落下地点に先回りしたボグート氏がしっかりとその小さな身体を受け止め、おかげでパピには全く怪我はなかったのですが…。
「ご主人様! いえ、お父ちゃんっ! 思い出ちてちょうだいでちっ! 今回のこれは決ちて負け戦じゃないんでちよっ!」
 懸命に訴えかけるチビ犬の悲痛な声にさえ、スカール様は「苦しゅうない、俺に任せろっ」とかえって怪気炎を上げるばかり。そしてたった今、パピ救出に飛び出し損ねた(とゆーか逃げ遅れたとゆーか)横山くんを捕まえ、あーだこーだと戦況を確認なさいます。
 そして…。
「ぬゎにぃっ!? 我方の兵器はあれで最後だぁ? う〜いっ。よくぉやむぁっ! お前がついていながらどーしてそんな大盤振る舞いしちまったんだよっ! ひくっ」
 全てを知った途端、スカール様の手が横山くんの襟首にかかり、ぶんぶん激しく揺さぶります。ですがどんなに揺さぶられようが、据わった目で睨みつけられようが酒臭い息を吐きかけられようが、ない袖は振れません。…内緒の話、基地内での応戦用にまだ一つ目ロボットが二十体ほど残っているものの、これを出してしまったら当初の作戦―00ナンバーどもを基地内に足止めしておいて自爆装置で吹っ飛ばす計画―までもが頓挫してしまうでしょう。かくして横山くんは拳を握り締め、歯を食いしばって上司からの過酷な揺さぶり攻撃に耐えていたのですが…。
 ついに業を煮やしたスカール様、よりにもよってとんでもないことを思いつかれてしまわれたのでした。
「ん〜? 待てよ…。確か海底ドックの輸送潜水艇に戦闘機が三機残っていたなぁ…」
 この恐ろしい台詞に、パピの心臓が凍りつきました。
「おおおお父ちゃんっ! やめてっ! あれは違うの! 戦闘用じゃないのっ! 今回のお引越し費用を工面しゅるための、大事な大事な売り物なのぉ〜っ!」
 腕の中で暴れ出したチビ犬を、ボグート氏がぎゅっと抱きしめます。
「パピちゃん、よせぃ! 今のスカール様に逆らったらたとえパピちゃんといえども危ないっ」
 こちらもれっきとしたサイボーグであるボグート氏に抱きしめられては、所詮しがない超小型犬、抵抗のしようがありません。ですが…ああ、ですがそれでもなお。
「お願いでち! お父ちゃんっ、あれだけは取っといてっ。ねぇっ、ねぇってばぁ…っ」
 しかしすでにスカール様のお耳には、そんなパピの声すらも届いておりませんでした。
「横山っ! 即刻海底ドックに急行し、戦闘機の出撃準備にかかれっ。確かありゃ、遠隔操縦できるように改造してあったよな? う〜いっ。ならばこのコンソールからでも充分に操作可能、00ナンバーどもめ、今この俺が目に物見せてやるっ! ひっく」
「そ、そんな…スカール様っ! あれは…」
 BG団員にとってスカール様の命令は絶対、たとえどのような理由があろうとも逆らうことは決して許されません。…とは言うものの。
「どうぞ、お気を確かにッ。あの三機はイーグルといえども完全なパチモン、耐久力も戦闘能力も皆無に等しいハリボテもいいとこでありますっ! たとえ出撃させたとしても即刻撃墜されるに違いなく…」
 蒼白になった頬、からからに渇いた口で懸命に訴える横山くん。しかし、今のスカール様は理屈や正論が通じる状態じゃございません。
「ぬゎにぃ…? 横山貴様、俺の命令に従えんというのかッ! う〜いっ」
 ふらふらと再び立ち上がったスカール様が両腕を勢いよく振り回すやいなや、その肘から先がすっぽりと抜け落ち、鈍い音とともに床に転がります。そしてその下から現れたのは、これまた昔懐かし、あまりにも有名すぎる成層圏はヨミの魔人像内の闘いで009を苦しめた槍状腕! あの折、009を追い詰めて機械に縫いとめたその切っ先が、今回は真っ直ぐ横山くんの胸板を狙っております。
「命令拒否は即刻銃殺というのが我がBGの鉄の掟! どうしても嫌だと言うなら横山! 今この場で俺が引導を渡してやるっ。ひっく」
 これにはさすがのボグート氏やシロオスラシ大佐、それにパピとて黙ってはいられません。
「スカール様っ! おやめ下さい! 今回ばかりは横山の意見の方がもっともですぞ!」
「ええい、スカールっ。さっさと酔いを醒ませいっ」
「お父ちゃん、やめてぇっ! あれがなくなっちゃったらお引越しが…お引越しがぁっ」
 三者三様の絶叫に、スカール様はゆっくりと振り向かれます。ですが相変わらずその眼差しはしっかりと据わったまま、その上どことなく焦点が合わず…。
「何だと…? 横山ばかりか幹部たる貴様らまで俺に逆らうというのか…? ういっ。ならば皆、同罪だぁぁぁっ」
「スカール様っ!」
 こちらも負けずに叫んだところで、横山くんの胸にはいまだスカール様の右手の切っ先が狙いを定めております。しかももう一方の左手は、残る幹部二人にしっかりと向けられて…。
「ボ…ボグート様…大佐殿…パピちゃん…」
 シロオスラシ大佐は言うまでもなく生身、あんなもので串刺しにされては間違いなく命がありません。サイボーグであるボグート氏といえども、生身のパピを抱いていては加速装置など使えるわけもなし、おそらく同じ運命をたどるしかないでしょう。
 横山くんのメガネの奥、小さな目の中で何かがきらりと光りました。
「ス…スカール様! 了解致しました! 横山、ただ今から海底ドックに向かい、イーグルの出撃準備に入るでありますっ」
「横山っ!」
「お兄ちゃんっ!」
 ちらりと振り返ったその目が、ひたとパピを見つめます。
「…パピちゃん…。ごめん…ね…っ!」
 そして横山くんは、涙の敬礼とともに脱兎のごとく作戦司令部を走り出て行ったのでございました。

 こうして、思いもかけないもう一匹のヨッパライ○ジラの暴走のおかげで大混乱に陥ったBG作戦司令部。ですがこのとき、先に暴れ出した元祖暴走ゴ○ラ―009の方はもう、すっきりけろりと正気に戻っておりました。
 もともとが、決して闘いを好む方ではない穏やかな気性の少年です。それがたまたま、愛する003の危機を察して頭に血が上り、前後の見境がなくなっただけですから、彼女の無事さえわかればいつまでも暴走する必要もないのですが。
「003…無事でよかった…!」
「ええ、ありがとう009。貴方の…おかげだわ」
 今しがたまでのあの悪鬼の形相から瞬時にしていつものおとなしい童顔に戻り、優しく恋人を気遣うその変わり身の速さはまぁ、現金というか二重人格というか、とにもかくにも後ろから思いっきりケリを入れてやりたいくらいでございます。
 ですが、他の仲間たちはもうこんなの慣れっこになっておりますからして、今さらそれにわざわざツッコミを入れるほどのヒマ人、物好きもおりません。
「さて、静かになったところでBG基地の探索にかかるか」
「ああ。こいつらが飛来した方角から考えても基地は多分島の北側、最初から僕らが目をつけていた地点にあるはずだ」
「じゃ、さっさと見つけて手っ取り早く片づけちまおうぜ」
 恋人たちの甘い語らいなど完全無視しててきぱきと今後の方針を決めていく004、008、002以下の面々。そして、いよいよ出発となったそのとき。
 はるか遠くから飛行機の爆音が聞こえたような気がして、00ナンバー全員が不審げな顔を見合わせる間もなく新たな敵―そう、かのパチモンイーグル三機がこちらへ向かってまっしぐらに突っ込んできたのです。
「また新手か!?」
「ああもう、しつこいアルねぇ」
「でもちょっと待てよ! あれはもしかしてイーグル…? まさか、BGとは関係ないどっかの空軍機じゃないだろうなっ」
 名戦闘機イーグルはアメリカや日本を始めとする複数の国々の軍用機として採用されております。もしも万が一、あれらがそんな無関係の国々に所属していた場合、ヘタに撃墜したらとんでもないことになるでしょう。ですが―。
「へん! どうせあんなの、奴らのカモフラージュに決まってらぁ!」
 言い捨ててぱっと大空に飛び上がったのは002。いつものことながらその思い切りのよさ(←無鉄砲とも言う)は大したものです。そして瞬く間に三機のイーグルに接近したかと思うや、飛び込んできた脳波通信は。
(やっぱ思ったとおりだ! こいつらには人間は乗ってねぇし、国籍の表示も何もねぇ! おそらくBGのリモコン無人機だ!)
 威勢のいいその報告に、仲間全員がほっと胸をなでおろしたのもつかの間、飛来してきた三機は戦法もへったくれもなく、ただただ地上の00ナンバーたちをめがけてまっしぐらに突っ込んでまいります。
(まじぃ…! 体当たりする気か…?)
 002の顔色が変わり、とっさにスーパーガンを構えました。いかに高性能とはいえ所詮小型銃火器であるスーパーガンで戦闘機を打ち落とすのは難しいでしょうが、そんなことを言っている場合ではありません。
「くそっ…!」
 こうなったらもう駄目で元々、半ばヤケになってトリガーを引いた002。すると…。
 何と撃ち出されたレーザーが三機のうち一機をあっさり貫通、大爆発を引き起こしたのです。
 その頃には地上の仲間たちも迎撃を開始しておりましたが、それからしばらくの間、002は上空に浮かんだままいかにも不思議そうに首をひねるばかり。
(…? どーしてスーパーガンで戦闘機が撃ち落せるんだ…?)

 かくて。
 BG本拠地引越し計画の主要財源となるべき商品三機は、出撃どころかただ飛んでっただけで見事に00ナンバーどもに撃墜されてしまったのでございます。
「きゃぁぁぁぁっ! ボクの…ボクのパチモンイーグルぅぅぅ…っ!」
 あまりといえばあまりにあっけないその最期を目にしたときのパピの心境ときたら、これはもう察するに余りあります。可哀想なチビ犬はなおもボグート氏の腕の中でもがきつつ、血を吐く絶叫を上げたきり、そのまま完全な放心状態に陥ってしまったのでした。
「お…おい、パピちゃん!」
 ボグート氏がそっと揺さぶってもほっぺを軽く叩いても、パピのつぶらなお目々はどこかあらぬところと見つめているばかりです。しかしながら、それでもやがて。
「…ボグートのおじちゃん…。ボクを下ろちてちょうだい。…でもって、ご主人様を手伝ってあげて…。こうなったらせめて最後の自爆攻撃だけでも成功させなきゃ、あのパチモンイーグルも…浮かばれまちぇん…」
 消え入りそうな小声でようやくそれだけつぶやいたパピの哀れさ、そしていじらしさとけなげさにさしものボグート氏の目頭も熱くなります。
「そ…そうか…じゃ、おじちゃんこれからスカール様のサポートについて、あの自爆作戦だけは何としてでも成功させるから、パピちゃんも…元気出して」
 最後の最後にもう一度きゅっとパピを抱きしめ、そのまま静かに床に下ろしてやったボグート氏は、そのままなおも振り返り振り返りつつ、コンソールに陣取ったスカール様のもとへと駆けつけていったのでございました。
 一方、下ろしてもらった途端にぺたりと床に座り込み、ぼんやりとボグート氏を見送るパピの脳裏にはさまざまな想いが去来いたします。
(ああ…ボクのパチモンイーグル…あれがなくなっちゃったらお引越し費用のうち九〇〇万ドルがパー…これじゃもう、早期のお引越しなんて絶対できないでち…)
 小さな前脚に、涙のしずくがぽとりと落ちました。
(一度受けたご恩は忘れないのがわんこの仁義、だから…だからボク、頑張ったのに…あの冬の雨の夜にボクを拾ってくれたご主人様、そちて今まで優ちくちてくれたみんなのために…一所懸命…お金…作ったのに…)
 まさしく爪に灯をともし、骨身を削らんばかりの努力によってようやく工面した引越し費用の最大財源を、よりにもよって当の飼い主が酔っ払って暴走した挙句あーも簡単かつ盛大かつムダにぶっ壊してくれたとなれば、これぞまさしく「飼い犬に手を噛まれた」どころか飼い主にその自慢のデカ耳やふさふさ尻尾を食いちぎられたも同然の仕打ちでございます。
(ボクたちわんこがどんなに辛抱強くて恩を忘れない生き物でも、これじゃあんまりでち、ご主人様…)
 いっそのこと引越しを中止し、当初の予定通り秋まで待つ…それができればまだマシだったのかもしれませんが。
(だけど…あの裏切者しゃんたちがこの基地のしゅぐそばまでやってきてるこんな状況で、今さらお引越しを先延ばししゅるなんてできないでちよね…仮に自爆装置作動を中止ちて応戦、運良く撃退できたとちても、この基地が無傷で済むわけないし…これ以上ボロボロになっちゃったら本当に生き物の住める建物じゃなくなっちゃうでちよ、ここ…)
 しかも、パピはさらに恐ろしい事実に気づいてしまったのです。
(…ってことは即刻新たに九〇〇万ドル作らなくちゃならないってことで…ううん、しょれだけじゃないでち。確かネットオークションの売買契約は売り手と買い手が互いに意思表示ちてその旨相手方に伝達ちた時点で成立するはずでちから、もちかちたらあのパチモンイーグルの買い手にも損害賠償しなきゃいけないかも…だったら、用意しなきゃいけないお金は一〇〇〇万ドル以上…? きゃいいぃぃぃんっ!? 冗っ談じゃないでち!)
 小さな小さなふかふかの背中に、言いようのない悪寒が走りました。
 いくら恩義を忘れず辛抱強い犬族といえども、せっかくの恩返しを台無しにしてくれやがったサイテーの飼い主のためにもう一度あんな苦労をして金策に走り回るほどお人よし、いえいえお犬よしではございません。
 パピの心の中で、ある決意が形をとり始めておりました。

 やがて―。

 その場にきちんとお座りして姿勢を正したパピ、いまだコンソールでぎゃぁぎゃぁ大騒ぎしているスカール様とボグート氏、そしてシロオスラシ大佐の姿をじっと見つめます。スカール様のお酒はまだ醒めていないようですが、それでも幹部二人の辛抱強い説得のおかげでどうやら例の自爆作戦だけは納得してくれた様子、それを見て取ったパピのお顔にほのかな安堵の笑みが浮かび、心の中でそっと皆に話しかけました。

(…お父ちゃん。あの夜拾ってくれて以来、ずっとずっと大事にちてくれてあんがとでちた。ボグートのおじちゃん、シロオスラシのおじちゃん、たくさん優ちくちてくれて、たくさん遊んでくれてあんがとでちた。そちて横山のお兄ちゃん…あんがとでちた。できればもう一度…もう一度だけ…会いたかったでち。…皆しゃん、長い間本当にお世話になりまちた…)

 そして最後に万感の思いを込めて深々とその場に一礼したチビ犬は、そのままひっそりとBG地下作戦司令部を出て行ったのでございます。
 


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