前略、道の上より 5


 話し手がヤスに代わって、ジョーとジェットは露骨にほっとした表情になった。パピの言葉は確かにいちいちもっともで、(一応)大人の身(になりかけの青少年)としては深く考えさせられるものであったが、こんなチビ犬に人間社会、あるいは教育に関する問題点を指摘・解説されるというのはやはり…人としてあまりにも哀しく、情けなさすぎる。
 しかし例によってパピはそんな二人の様子になど目もくれず、再びソファのタオルの上に戻って、自分の義務を無事果たした者だけが見せる満足げな表情を浮かべつつ長々と寝そべっているばかり。
 そんな「お犬様」に続いて口を開いたヤスの話はというと。
「ありゃちょうど休みの日だったんだ。だから俺、昼過ぎまでぐーたら寝ててよ、夕方近くになってからちょいとパチンコ屋行って、ついでに馴染みの飲み屋でメシ食って酒飲んで…たまたま顔見知りの常連さんたちと一緒になって結構盛り上がったりしちまったから、アパートに帰ろうとしたときにはもう、真夜中近くになってたんだよな…」
 そこでちょっと、考えをまとめるように目を閉じて。
「アパートのすぐそばの工事現場を通りかかったときに、俺はあいつらを見つけた。でもってちょいと注意なんざしてみたのさ。別に、夜遅くほっつき歩いてるこたぁ何とも思わなかったんだけどよ―だって俺らも似たようなことやらかしてたじゃねぇか。覚えてっか、ジョー―でもよ、工事現場ってなぁちっと場所が悪りぃや。だから一言、『ンなトコにいたら危ねぇぞ、タマるんだったら場所変えろ』ってさ。そしたらなぁ…」
 「覚えてっか、ジョー」と言われてついつい昔を思い出してしまったらしく、遠い目をしていたジョーが、そこでまたはっとヤスに視線を戻す。一方のジェットは最初からずっと、ヤスの口元を真顔で見つめているばかりだ。
「振り向いた奴らの目に、俺はぎょっとしちまった。だって、何の感情も浮かべてないんだぜ!? ありゃ、人間の目じゃなかったよ。よくできたお人形さん…そう、お人形さんの目だ。そりゃ俺だって、奴らが素直に『ゴメンナサイ』するなんて思ってなかったさ。だってジョー、俺らもそうだっただろ? 仲間同士夜の街でタマってたとき、おせっかいな大人に声かけられてよ。…ムカついて、うざってぇと思ってさ、いつもそいつらを睨み返してたじゃんか。怒りと敵意一杯の視線でよ。…今思えばそんなの、世の中を拗ねてたガキの生意気なツッパリにしか過ぎなかったんだろうけど…でも、それが普通じゃねぇか? ムカついて睨み返すにしろ万が一反省して謝るにしろ、『ムカつく』とか『うぜぇ』とか『ヤベぇ』とか…人間だったら…ガキだったら何らかの心の動きが目に…いや、表情に出るはずだろ? 少なくとも俺らの頃はそれが当たり前だったよな、ジョー。…ジェットだって、俺の言いたいことわかってくれるだろ?」
 わからないも何もない。ヤスのその戸惑いこそ、ジョーとジェットが初めてこの店を訪れ、そしてあの子供たちを目にしたとき感じた違和感そのものだったのだから。茶色と青、二対の目がしっかりとヤスを見つめ、大きくうなづく。
「俺、マジでおっかなくなっちまった。もしかしたら狐や狸に化かされてるんじゃないか、今俺の目の前にいるのは人間じゃない―夜の闇に浮かれ出てきた得体の知れねぇバケモノなんじゃねぇかと思ってよ。…でもその反面、このまま知らんふりで通り過ぎちゃいけねぇ、って気もしてさぁ。で、思い切って奴らに近づいて…一番手近にいたチビの腕を取ってもう一度言ってみたんだよ。『こんなトコでタマってたら危ねぇぞ!』ってな」
 つかんだその腕は確かに人間のものだった。柔らかくて温かい、しっかりとした手触りにヤスはほっと緊張を解く。だが、その瞬間。
(てめぇ、このクソオヤジ、何しやがる!)
 突然立ち上がったひときわ大柄な少年が、よりにもよって傍らに転がっていた鉄パイプを拾い上げ、いきなりヤスに殴りかかってきたのだった。
「そいつがほれ、お前らが初めてここに来たとき俺に怒鳴りつけられたタケシだ。あんときゃ本当にぶったまげたよ。だっていきなりガツンだぜ。あんな不意打ち喰らっちゃいくら『ハナキズのヤス』様でもどうしようもねぇや。モロに額やられて流血の惨事さ」
「何だってぇ!?」
 あまりにとんでもない話に大声を上げたジョーとジェットを軽く手で制しながら、ヤスはちょいちょい、と自分の額を指さす。
「ほれ、これがそんときの傷痕よ。ま、そんなに大したこっちゃなかったけどな。血が出たっつーてもほんのちびっとだったし」
 確かにその傷痕はよく目を凝らさなければわからないくらいうっすらとした、かすかなものであった。だが、だからといって「ならよかったね」と納得なんかできるわけがない。
「ちょっと待てっ! いくら何でも初対面の相手にいきなりエモノ持って殴りかかってくるなんてまともじゃねぇぞ! そりゃぁ、最初から金でも奪うつもりで襲ってきたとか、前々から対立してた相手とかなら別だが…いや、たとえそうだとしても…いきなりってなぁ…」
 威勢良く叫んだジェットの語尾が少々尻すぼみになってしまったのは、かつての自分を思い出してしまったからだろうか。…昔、ニューヨークにいた頃のジェットにとって、盗みや路上強盗などは日常茶飯事だった。敵対していたグループのボスをナイフで刺してしまったことさえある。だがたとえ金を奪うにせよ、標的をいきなり鉄パイプやバットで殴りつけるような闇討ちめいた真似はしなかった。ナイフの一つもちらちらと見せつけながら凄んでやれば、大抵の連中は素直に金を出す。あとはそのまま全速力で逃げればいい。目的はあくまでも金であって、見ず知らずの人間を叩きのめすことではなかったのだから。心ならずも人を刺してしまったあのときだって―その前にはそれなりの小競り合いがあって。たとえ挑発したのは自分たちだったとしても、先にナイフを出したのは相手の方だった。それだけは、断言できる。
 苦い思い出がかえってその心を興奮させてしまったのだろうか。ジェットの青い目がぎらりと光り、ソファの上で寝そべっていたチビ犬―パピを睨みつけた。
「おいワン公! てめぇ、それでもあのガキどもが不良じゃねぇ、『いい子』だって言うのかよ! たとえヤスの言葉にムカついたにせよ、いきなり鉄パイプで殴りかかってくる連中が! そんなの、『いい子』どころか不良以下だ! いや…犯罪者以下じゃねぇかよ!」
「ジェット!」
 激昂したジェットをジョーが遮る。怒声の中に確かに交じる、深い後悔と痛みの響きをはっきりと聞き取ったからだ。ジェットが怒鳴りつけ、責めているパピやあの子供たちの向こうには、まぎれもなく過去の彼自身がいるはず。そんな辛い叫びを、これ以上ジェットに上げさせたくはなかった。  だがパピはそんな人間たちの思いなどどこ吹く風、後脚で耳の後ろをかきながら、大あくびしているばかりである。「あ〜うぉぉ〜ん」といういかにも気持ちよさそうでのんびりした唸り声に、一瞬毒気を抜かれてしまった人間ども。
 そして最後に、その後脚をぺろぺろと舐めて毛並みを整えてから。
「…ジェットしゃん。残念ながらしょの程度じゃボクの見解は変わりまちぇんね。あの子たちはしょれでもまぎれもない『いい子』でち。いえ、むしろ『いい子』だからこそヤスしゃんに殴りかかったんでちよ」
 そこで不意に真面目になったつぶらな瞳。
「さっき言ったでしょ? あの子たちはしょんな『いい子』でいることに耐えかねて夜の街に出てきたって。夜中の路上でちか、自由になることができなくなっちゃったって。…裏を返せば、夜の街でのあの子たちは子供本来の姿に戻ってるってことでち。純真無垢で無邪気で一途な反面、我儘で衝動的で残酷な…天使と悪魔、両方の顔を持ったまぎれもない『子供』、しょのものにね…」
 言いつつ、その細い前脚をぐん、と踏んばり大きく伸びをしたパピヨン。
「もちろん、ヤスしゃんやジェットしゃんの言ってることもよくわかりまち。子供が大人に叱られたり注意されたりちたら、素直に反省するか、逆に反抗するかが当たり前だというご意見は多分、正ちいのでしょう。…だけど、今までずっと『いい子』でいたあの子たちには、叱られた経験がほとんどないんでち。まちて親でも学校の先生でもない、見ず知らずの他人に叱られたなんて、もちかちたら生まれて初めてだったのかもちれまちぇんよ」
 ジョーとジェットがついつい顔を見合わせる。自慢じゃないが昔はかなりの「ワル」だった二人にとって、「一度も他人に叱られたことのない子供」など想像もできない。
「ま、最近は大人の方も『叱る』という行為ができなくなっちゃってまちからねぇ…って、しょんなことはどうでもいいでち。とにかく、あの子たちには叱られた経験がほとんどなかった。だから、突然ヤスしゃんに声をかけられ、叱られて―いえ、注意されてもどう反応ちていいかわかんなかったんでちよ。しょれに多分、彼らには工事現場が危ないところだという認識もそうそうなかったんじゃないでしょうか。最近の子供はあまりお外で遊ばなくなりまちたからね。小さな頃からお外で遊んで、ときに大人の言いつけを破って危険地帯に入り込んでこっぴどく叱られたり、自分自身がちょっとした怪我なんかしてみれば、そこがどんなに危ないところか骨身に沁みてわかるんでちけど、しょんな経験を持っている子供なんて、今じゃそんなにいないでしょうし…。しかもあの子たちは工事現場の中を探検ちたり、走り回って遊んでたわけじゃない。資材や工事用車両の隙間、ただの空き地に集まってお話ちてただけでちもの。鉄骨や砂利の山だろうが積み上げたコンクリートの袋だろうが、触ったりよじ登ったりもちていないのにひとりでに崩れてくるなんてことはまずないでしょ? まぁ、しょれでも万が一…ということがありまちからああいうところは危ないんでちけどね、幸か不幸かあの子たちはしょんな事故にも一度も遭ったことがなかった―だからヤスしゃんの注意は、彼らにとって余計理解不可能な、わけのわからない呪文くらいにちか聞こえなかったんでちよ。ところがしょれを知らないヤスしゃんは、さらに一歩踏み込んで、子供たちの中の一人の腕をつかんだ―」
「全てを知った今となっちゃ、それがどんなにまずいやり方だったかよくわかるんだけどな」
 ちっ、と舌打ちをしながら頭をかいたヤスが、再び話を引き取る。
「あれで俺は、奴らにとって完全な敵―悪人になっちまったんだよ。あとでタケシから聞いたんだが、あいつ、俺のことを誘拐犯か何かじゃねぇかと思ったんだそうだ。で、とっさに転がってた鉄パイプ拾って殴りかかったんだと。ま、確かにそう思われても仕方ねぇ行動ではあったわな」
 そこでまた、やれやれといったふうに肩をすくめたヤス。
「ただ、そんときの俺は奴らの事情なんざ全然知らなかったし、いきなりぶん殴られて頭に血が昇ってたからよぉ…すぐさまタケシから鉄パイプ取り上げて、ついでにその横っ面張り倒してやったのよ」
 いかに鉄パイプを手にしていたとはいえ、タケシは決してケンカ慣れしていたわけではない。おそらくこんなことは初めてなのだろうと、ヤスはすぐに見切った。第一、振り上げた鉄パイプの重さに自分自身が振り回され、足元がふらついているようでは、到底ヤスの敵ではない。
「タケシだけじゃねぇ。その場にいた全員、張り倒してやった。あ、もちろん手加減はしたぜ。何せ、小学生や女の子もいたからよ、利き腕の右じゃなくて左の…平手で軽〜く、な」
 それでも呆然とその場に立ちすくんでしまった子供たち。そこへさらに、ヤスの一喝が飛んだ。
(今ぶたれて痛かったか、てめぇら! 誰かに殴られるってことがどんなにおっかなくて痛てぇことだかわかったか! もしわかったんなら、もう二度と誰かを―人間だろうが動物だろうが―考えなしにいきなり、それも鉄パイプなんぞでぶん殴るんじゃねぇ! 殴られても反撃するな、ケンカするなってことじゃねーぞ。俺はそんな偉そうなことが言えるご立派な人間じゃねぇからな。だがいいか! 自分が殴られる痛みも、他人を殴る痛みも知らねぇくせにエモノ持って誰かをぶっ叩くなんざ百年早い! これだけは覚えとけ!!)
 そしてじろりと一同をねめつければ、すっかりあっけに取られていたはずのタケシが、おずおずとうなづいた。それを見た他の子供たちも、一人、また一人とタケシに続き―気がつけばいつの間にか全員がしょんぼりとうつむいてしまっていて。
「マジ、それで奴らが納得してくれたってなぁ単に俺がツイてただけだって気がする。もしかしたら完全に奴らの心をぶっ壊してた可能性の方がデカかったかもしれねぇんだしよ。だがそれでも、とにかく奴らは俺の言葉に耳を傾けてくれるようになった。だから、その次はできるだけおとなしく、どうしてここが危ねぇのかってことをじっくり説明してやってさ。そしたらガキどもの中にもぽつりぽつり口を開く奴が出てきて、『ここにいちゃダメって言われたら行き場所がない』なんてヌカしやがるからよ…。俺、きっとあんときまだ酒が残ってたんだな。ろくすっぽ話も聞いてねぇってのに妙な男気出しちまって『場所なら俺が提供してやる』って…ウチの店の場所、教えちまったのさ。とはいえもうかなり夜が更けてたから、とりあえず今夜はここまでってことで全員家に帰したんだけどよ」
 そして翌日仕事に出てみれば、果たしてあの子供たちが次々に店の前に集まってきたのだった。それを目にしたヤスがどれほど驚いたかは想像に難くない。
「そんとき初めて、自分がとんでもねぇことやらかしちまったって気づいたんだけどさ、今さらあとにも引けねぇだろ? だから、店の連中や―ウチのバイトの中にゃ教育学部の奴もいるからよ―オーナーや今井さんにも相談してな…結果、少しでも大人の目の届くところでタマってる分にゃまだマシだろうって話になったんだ。そりゃ、よくねぇことは重々わかってる。だが、ここで無理矢理夜の外出を禁止したり、親や学校に連絡してことを大袈裟にしたりしたひにゃ、奴らの中の何人かは間違いなく追いつめられてどうにかなっちまいそうだったからよ…。幸いあの夜以来、あいつらは俺の言うことだけはきちんと聞き分けるようになってた。だから、帰りは必ず全員一緒に帰ること、小っこいガキどもから順に、タケシとヨーコ―女の子の最年長だな―が責任持って家まで送ること、でもって最後はタケシがヨーコを送ることを約束させて、タケシとヨーコにゃ携帯用の防犯ベルも持たせてさ。あとはもう、今井さんたちと俺ら全員が協力して奴らを守ってやるっきゃないって腹くくったんだよ。…そうやって、いつか奴らが俺以外の―今井さんや店の連中みてぇな大人たちにも心を開いてくれて、愚痴たれたり相談してくれるようになりゃ…真夜中の、無人の街以外にも『自分が子供のままでいられる場所』があることに気づいてくれりゃ…こんなことも収まるんだろうけどよ。残念ながらまだまだ時間がかかりそうだなァ」
 そこで、小さく肩をすくめて。もう一度、「ホント、まずいやり方だぜ」とつぶやいて。
「オーナーにしろ店の連中にしろ、いや、誰より今井さんがよくこんなこと許してくれて、つき合ってくれてると思う。ただでさえてめぇの仕事が忙しいのに余計な手間暇はかかるし、それより何よりどんなに俺らが気をつけてやったって、あんなガキどもが夜中にうろついてるなんざ、やっぱ危険なことには違いねぇんだからな。…でもよ、たった一つだけ―あの夜あいつらを怒鳴りつけた自分の台詞だけは正しかったって思ってんだぜ」
 きっぱりとしたヤスの団栗眼が、まじろぎもせずジョーとジェットを見つめた。
「なぁジョー。俺らも随分いろんなヤツらとやりあったけど、それはほとんどが拳と拳との戦い…よっぽどのことがない限り、てめぇの力だけでぶつかり合ってたよな。拳なら、相手を殴れば自分も痛てぇ。ケンカするなら、勝とうが負けようが互いに痛みを分かち合う、それが不良の仁義だと思ってたよな。でも、たった一度だけエモノ使って…ぶっとい角材で人間を殴ったことがあったろう」
 真剣なヤスの視線に、ジョーがこっくりとうなづく。
「ああ、覚えてる。前に僕らとやり合ってのされた奴らが、その仕返しに不意打ち喰らわせてきたときだろう?」
「あんときゃそんな、仁義だのへったくれだの言ってる場合じゃなかった。相手はみんな、バットだの棒っきれだの持って武装してたのによ、こっちは完全な丸腰だったんだもんな」
「しかも向こうは十数人、こっちは二人きり…とにかく逃げるしかないって、無我夢中で相手の『武器』を奪って殴りつけて、強行突破したんだったよね」
「あんとき、俺は本当に怖かった…いきなり大勢で襲いかかられたこともそうだが、それ以上に…角材で人間を殴ったときのあの感触、人間を殴ったってのにてめぇは何の痛みも感じていねぇ、そんな状況が死ぬほどおっかなかった。なぁ…やっぱ人間ってなぁ動物なんだよ。戦うときにゃ自分の力だけで戦うのが自然であって、余計なエモノ…角材とか鉄パイプとか、ナイフとか銃とかみたいな『武器』に頼って相手をやっつけるってのはやっぱどっかおかしくて、おっかないことなんだ。だけどそんなの、『殴る痛み、殴られる痛み』を本当に知ってる奴じゃなきゃわかんねぇのかもしれない。だから俺、奴らを殴ったんだ。俺と同じ痛み、俺と同じおっかなさをわかってくれる人間になってほしくてよ。だって―」
 不意に言葉が途切れ、きつく唇をかんだヤス。だがそれはほんの一瞬のことだった。
「俺がチョーエキ喰らった例の事件、な…あんとき相手を殺さずにすんだのは、そんな『おっかなさ』を知ってたおかげだったと思うんだ…。あの気持ちを知ってるからこそ、俺たちは人殺しにならずにすんでる。…違うか、ジョー?」





 今夜の運転手はジョーだった。だが、ヤスと別れて車に乗り込んで以来、栗色の髪、茶色の瞳の少年は一言も口を聞かない。ただひたすら前方を見つめ、無言のままハンドルを切っている。
 見かねたジェットが助手席からふと声をかけた。
「おいジョー。お前、また変なことで考えこんだりしてねぇだろうな」
 応えはない。ジェットが軽い舌打ちをもらした。
「殴る痛み、殴られる痛み…それを知ってるから人殺しにならずにすんだヤス、同じくそれを知ってるくせにサイボーグとして無数の敵を殺してきた自分…どーせ、ンなことあたりで悩み出しちまったんだろうけどよ」
 言いつつポケットから煙草を取り出し、一服火を点けて。
「そんなん、お前の所為じゃねぇ! たとえこの手が血にまみれてようが、俺たち全員、ヤスと同じだよ! 敵を倒すたび、その命を奪うたび、その痛みを思い、失われた命の重さを思い…身体は無傷でも心からは溢れんばかりの血を流して、胸に突き刺さる無限の痛みにのたうちまわってきたんじゃねぇか! 中でもお前が一番苦しんできたことを俺はよく知ってる。俺たち00ナンバー中『最強』の力を与えられてしまった『009』であるお前だからこそな。…でも、俺らだって同じなんだ! ヤスと同じ痛み、同じ恐怖はいやってほどわかってる! それでも闘い続けなくちゃならねぇのは絶対にお前の…俺たち自身の所為じゃない。だからジョー! お前が自分を恥じる必要なんざこれっぽっちもねぇんだよ! それだけは忘れるな。…頼むから、忘れねぇでくれ…」
 そんなジェットの説得すら耳に入っていないがごとく、それからなおもしばらく無言を通して車を操っていたジョーだったが。
 たまたまぶつかった赤信号にブレーキを踏んだ、そのわずかな時間に。
「うん…。そうだよね、ジェット。僕らだって、ヤスと同じだ…それは、よくわかってるよ。だから、心配しないで。…そして、ありがとう」
 言いつつにっこり振り向いてくれたその笑顔に、ジェットもほっと安堵の息をついたのだが。
「あ…」
 不意に眉をひそめたジョーに、再び青い瞳が不安な影を宿す。
「どうした? まだ何か引っかかることがあるのか、ジョー?」
「あ、ううん。別に、大したことじゃないんだけど…」
 信号が青に変わり、ゆるゆると動き出した車がたちまち流れるようなスピードで走り出す。
「ただ、訊き忘れちゃったなぁって思ってさ。ヤスや今井さんはともかく、どうしてあの中にパピちゃんが交じってるんだろう? ね、パピちゃんの飼い主ってヤスでも今井さんでもないよね。一体どうやってあの子がヤスたちと知り合ったと思う?」
 深夜のこととて、後続車も対向車もいないスムース極まりないドライビング。にもかかわらず、ジェットは一瞬つんのめって、危うく自慢の高い鼻を思いっきりフロントガラスにぶつけるところだった。

(あんなワケわかんねぇワン公のことなんざ、このまま世界の七不思議にしといた方が人類平和のためなんだよっ。いー加減にしやがれこの犬バカ!)
 


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