前略、道の上より 4


 三人がそんなバカ話(←いや、話している方は至極真剣なんだけど)をしているうちに、どうやら今井と犬の話も終ったらしい。
「ありがとうな、パピ。じゃ、俺はこれで帰るけど、あとの詳しいことはいつもどおり、ここのチーフに…もし何かあったら、チーフから俺に連絡してもらうから」
「はいでち。今井しゃん、お疲れ様でちた」
 ぺこりと頭を下げた犬を、最後にもう一度軽くなでてやりながら、今井がバイト学生―秋山に声をかけ、品物の精算を始める。と、それに気づいたヤスがぱっとそちらに駆け寄って―。
「あーあ、今井さん。今夜もまた特大ハンバーグ弁当食うんスか? これねぇ、確かにボリュームはあるけどほとんど肉とメシしか入ってないんスよ。おい秋山! ひじきの煮物と小松菜のおひたしのパック、まだあるだろ。ちょっと、持ってきてくれや」
「はいっ!」
 威勢のいい返事とともにさっとレジを飛び出した秋山とは対照的に、今井はいかにも迷惑そうに顔をしかめる。
「お、おいチーフ、俺はなぁ…」
「聞く耳持ちません。たまにはタケさん―竹内巡査部長見習ったらどうスか? おー、今夜のタケさんの分はきんぴら弁当っスね。これなら満点だ。牛蒡と人参、風呂吹き大根…トドメの桜漬けが綺麗じゃないっスか。これぞ、日本人の食いもんってヤツです!」
 ヤスの説教に、今井は半分泣きそうな顔になって―。
「冗談じゃない! いくら日本人の食いもんだからって、こんな肉っけなしの野菜ばっかの弁当で、これから当直勤務をこなすエネルギーなんて出るもんか!」
「この風呂吹き大根には鶏肉のそぼろあんがかかってますけど?」
 からかうような、そして少々意地の悪いヤスのツッコミに、若き制服警官はとうとう悲鳴を上げた。
「だからぁ! 俺とタケさんを一緒にしないでくれっての! タケさんはあれでもう五十過ぎだけど、俺はまだまだ若いんだ! 肉や油モン、腹一杯食いてぇんだよっ!」
「若くても、野菜が不足すればビョーキになります」
 取りつく島もないダメ押しの一言が出たところへ、見事なタイミングで戻ってきた秋山。
「はいチーフ! ひじきと小松菜、ありました!」
「お、サンキュ。それじゃ今井様、お惣菜パック二点追加お買い上げ〜」
「へい、毎度っ!」
 今井が言い返そうとした時には、すでに秋山が目にもとまらぬ速さでレジを打ち、チーンと言うあのおなじみの音とともにレシートが吐き出されていた。この店員コンビの絶妙なコンビネーションには、さしもの制服警官もかたなしである。
 無言のまま、恨めしそうな涙目で自分を睨む今井に、ヤスはあの営業スマイル全開の顔で、品物を入れた袋を差し出す。
「まぁまぁ、ひじきや小松菜ならさほどクセもないし、食べやすいと思いますよ。それにこの惣菜パックはどっちも税コミ一〇五円ですぜ。二個合わせてたったの二一〇円で明日の健康が買えるってんなら安いモンじゃないスか。それでも嫌だってンなら、春菊の胡麻和えとかセロリサラダ等にお取替え致しますし、代金の二一〇円はこちらのサービスにしても…」
 途端、今井の顔が引きつった。
「春菊やセロリなんざもっとやだよっ! それに、仮にも警察官がコンビニからタダで商品もらうような真似ができるかっ!」
 絶叫とともにヤスの手から袋をひったくり、すっかり肩を落とした制服警官。
「俺…チーフのことは本当にいいヤツだと思うけど、そーゆートコだけはちょっとなぁ…若い男のくせに姑ババァみてぇな根性しやがって」
「だったらさっさと嫁さんもらって健康管理してもらって下さい」
「へん! 嫁さんなんざ、チーフがいりゃいらねぇよ!」
「まぁ嬉しい♪ ヤス子、幸二さんのこと愛してるわン」
 ささやかな抵抗もむなしくすっかりヤスに言い負かされた今井は、やってきたときとはうって変わった悄然とした足取りで店を出て行った。それを「ありがとうございましたぁ!」とやけに明るく見送ったヤスがようやくジョーたちのところに戻ってきて。
「やー、悪りぃ悪りぃ。あの今井さんってヒトさぁ、すげぇ野菜嫌いなんだよ。だから俺、いつもああしていろんな惣菜押しつけてんだ。…ケーサツカンってのも、激務だしよぉ」
「あはは、確かに。だけどヤス、いくら何でもあんなにぽんぽん言っちゃっていいのかい? 何だか可哀想になってきちゃったよ、あのお巡りさん」
「そーかぁ? 俺は結構楽しく拝聴してたけどな。そんじょそこらのバラエティなんかよりずっと笑えたぜ、あのかけあい漫才」
「漫才って、ジェット…」
 言い合う三人を、秋山が面白そうに眺めている。と、そこへ。
「…何だかんだ言っても、ヤスしゃんは今井しゃんのことを心配ちてるんでちよ。ううん、今井しゃんだけじゃなくて、お店に来るお客様全員のことをね…だから、あの子たちもここに集まってくるんでち」
 不意に聞こえてきた、もう一つの声。
 それは、今の今まで彼らがすっかりその存在を忘れていたあのチビ犬―パピの声であった。



「…あの子たちはねぇ、わからないんでちよ。自分はどこにいればいいのか、誰かに愛されているのか嫌われてるのか、自分の存在に何らかの価値というものがあるのかどうか、そんなこと全部が…わからないんでち」
 場所は再び控え室。先ほど今井も言っていたが、どうやらこのチビ犬がとことこ店の中に入ってくるのは、どうやらあの子供たちの様子を今井と―それからヤスに報告するためらしい。そして、その報告を聞くのもどうやら、この店のチーフであるヤスの立派な仕事の一つのようだ。
 そしてジョーとジェットはといえば、一応パピに先ほどの無作法を詫び、あらためて挨拶と自己紹介をせざるをえず―それもこれも、部屋に入った途端にヤスが催促するように二人の脇腹をつついてきたからである。何が悲しくてこんなチビ犬相手に…と少々虚しい気分がしなくもなかったが、それでようやくパピの機嫌も完全に直ったようだ。例の小さなソファの片隅にヤスが敷いてやったタオルの上、ゆったりと寝そべった「お犬様」は、その前にお茶代わりの水を入れた器まで置いてもらっていかにも満足そうだった。そして可愛らしいピンク色の舌でぺちょぺちょ音を立てながらその水をなめ、のどを湿したのち、ようやくその小さな口が開かれたというわけだったのだが。
「おい、ちょっと待てよそんな…どこにいればいいのか、愛されているかもわからないなんてどーゆーこったい。奴らにはちゃんとした家もあれば親もいるんだろ?」
 意外な台詞に面食らったジェットがついつい聞き返してみれば。
「ジェットしゃんの言うとおり、確かにみんなには家も親もありまちよ。それに多分…親御しゃんは自分の子供のことを、心から愛して、大切に思っているはずでち」
「だったら、一体どうして…」
 いぶかしげに眉をひそめたジョーがさらに問いかけると、パピはそのデカ耳を二、三度ひくひくと動かして。
「どんなに愛ちていても愛されていても、互いの気持ちがすれ違っちゃうってことはよくあることじゃないでちか? それは恋人や友達同士に限ったことじゃありまちぇん。親子にだって当然、起こりうることなんでちよ」
 そこで素直にうなづくジョーとジェット(←だがこんなチビ犬に人間心理の解説されて、あっさり納得しちゃうってのもちょっと情けなくないか、青少年ども!)。パピもまた軽くうなづき返し、さらに言葉を続ける。
「ボクには、今のこの時代がいいとか悪いとか批判する気は毛頭ないでち。第一ボクは一介のわんこにちか過ぎないでちからね。正直、人間社会がどうなろうが一切構わないし、大して興味もありまちぇん。ただ―現在の人間たちがあまりに忙しすぎて余裕を失っていることだけは確かだと思いまち」
 どうやらこのパピ、かなりのインテリのようである。だが、犬のインテリなんてのもあまりといえばあまりな話だ。完全にあっけにとられたジョーとジェットのぽかんとした顔、そしてそんな二人にはお構いなしに話を進めるパピ。そんな三人(二人と一匹…?)の様子を、壁にもたれ、腕を組んだたヤスがじっと見つめていた。
「大人たちはみんな、朝から晩までくたくたのボロボロになって働いてまち。子供のいるお父しゃんやお母しゃんならなおさらでしょう。だって、そうしなくちゃ子供を育てられないんだもの。でも、そうやって懸命に働いて、疲れ切っちゃうとね…人間はついつい、他者への思い遣りを忘れてしまいがちなんでち。…というより、自分とは全然別の考え方や視点を持った人間の存在、そしてそんな相手とのつき合い方を見失ってしまうと言った方が正ちいでしょうか。まして、自分にとって一番近しい存在…家族ともなれば無条件に自分と同じ考え、同じ視点を持って世界を見つめていると思っちゃうんでちよ。まぁ、それでも大人同士―夫婦や兄弟姉妹、子供がある程度大人になっている親子―の場合ならさほど問題はないはずなんでちけどね。たとえしょれが原因で派手な喧嘩の一つもやらかちたって、大人と大人なら何となく相手の考えてることもわかるし、穏便にことを済ませる方法も知ってるし…いずれはどうにかこうにか丸く収まるんじゃありまちぇんか?」
 同意を求めるようにじろりと一同を見回したチビ犬が、そこで再びぺちょぺちょとのどを湿す。一方の人間どもは、口を挟むことすらできずにただただそのご高説を拝聴しているだけ(ああ、情けねぇ←涙)。
「だけど、子供はそうはいきまちぇんからねぇ…」
 小さなため息とともに、再びパピが話し始めた。
「大人と子供の感性、そちてその目に見える世界の姿ってのは全くの別モノなんでちよ。皆しゃんにも覚えがありまちぇんか? 小さな子供の頃に見ていた世界と、大人になった自分が見ている世界がまるっきり違っていることに気づいてびっくりちたこととか、ないでちか? しょれはみんな、大人たちがかつて子供の視点で世界を見ていた経験があるからでち。だけど、子供には大人の視点なんか全然わかりまちぇん。だって彼らはまだ子供なんでちもの。大人とちて世界を見たことなんて、一度もないんでちもの!」
 少しばかり興奮したのか、その語尾は完全な犬語に戻り―ぶっちゃけて言えばただのチビ犬のうなり声にしか聞こえなかった。それに気づいたのか、パピは一度、大きな深呼吸をして―。
「失礼致しまちた。でもとにかく、そんな理由で―もし大人と子供が解り合おうとしたら、大人の方が歩み寄り、努力するちかないと―ボクは思いまち。だけどこの時代、多くの大人たちはそうするだけの余裕を失ってるでち! いくら歩み寄ろうと思っても、疲れきった心ではやはり、自分と全く違う『子供』という存在を完璧に理解することは無理なんでちよ。だからどうちても、大人感覚の愛情や思い遣りばかりを子供に注ぐようになる。だけど子供には、その『大人感覚』自体がまだよくわかりまちぇんから…」
「結果として大人と子供の心はすれ違い、子供は親の心がわからずに混乱するだけ…ってか?」
 ジェットの言葉に、パピはわが意を得たりと言わんばかりの声で大きく「わん!」と吠えた。そして―。
「大人感覚で子供の問題を解決ちようとしてるのは親だけじゃありまちぇん。行政だって同じことでち。ちかもこっちは、『疲れているから』とかいう理由じゃなくて、大人社会に蔓延ちている行き過ぎた競争原理、成果主義をそのまま子供たちに当てはめようとちてまちから余計始末におえまちぇん。…例えば、もうずっと前から問題になってる『学歴主義』ね。その弊害を解消しようとちて、これまでにもお役所だの何だのがいろいろやってきたようでちが…少なくとも今の状態は、かえって事態をもっと複雑にちて、悪化させてるだけだって気がしまちよ。ゆとり教育だの絶対評価だの、口先だけでどんなきれいごとを並べたところで、学校を卒業ちたあとの進学や就職には試験―相対的評価による過酷なふるい分けがちっかり待ってるんでしょ? しょの現実を何とかちない限り、何をどういじくったって何の役にもたちまちぇん。むちろ、無駄な二律背反を引き起こちて現場の先生方や―何よりも当の子供たちを混乱させ、苦ちめてるだけでしょう。違いまちか?」
 「違いまちか?」と言われても…。返す言葉のないジョーとジェットに、パピは小さく肩をすくめて。
「大人たちがどんなに『無理をするな、頑張るな』なんて言ったって、学校での子供たちが結局成績…勉強ができるできないでランク分けされ、一握りのトップクラス以外は十把一絡げのその他大勢として扱われるのは今も昔も変わりまちぇん。…でも、それでも昔は運動会とか学芸会とか、勉強のできない子でもスターになれる場がちゃんとありまちた。なのに今は『一等賞になれない子が悲ちい思いをするから』って、運動会のかけっこをなくしちゃったり、みんな手をつないで一緒にゴール…なんてことさせてるそうじゃないでちか。おまけに例の『ゆとり教育』の一環で土曜日がお休みになっちゃったおかげで授業時間が足りなくなって、学芸会とかも一年おきになったり中止になったり…。おかげでますます学校での子供の価値が勉強―テストの点数だけで決まっちゃうようになりまちた。結果、トップクラスになれないほとんどの子供は自信を―自分の存在価値を見失い、ただいたずらにプライドをすり減らして卑屈になっていくだけ。一方トップクラスにいる子はいる子で、いつ誰が自分を追い越すかと休みなちに神経を張りつめさせるばかりでち。…そんなんじゃ、互いに心を許ちた友達同士になることだってできまちぇん。そちて結局、子供たちが追い込まれるのはおうちと同じ―すれ違うばかりの『他人』という存在に対する困惑、心と心との交わりを知らぬ者の孤独という迷路でち。本来なら楽しくて面白くて、幸せ一杯のはずの子供の時間を、さながら大人社会の縮図のように身も心もくたくたのボロボロになりながら過ごさざるをえない子供たちの苦しみが、ゆがみが…喧嘩やいじめ、非行という形とちて現れたからって、一体誰が子供たちを責められまちか! もちろん全ての学校、全ての子供がそうだとは言いまちぇんが…残念ながらあの子たちはみんな、その口のようでちね…」
「ちょ、ちょっと待ってよパピ…ちゃん。それじゃあの子たちは学校や家での生活に疲れ果てた挙句夜遊びを繰り返してる不良少年少女ってことかい?」
 今度のジョーの言葉には、パピはうなづかなかった。そのデカ耳…じゃなかった、頭がゆっくりと二、三度横に振られる。
「残念ながら、しょれは違いまち。あの子たちは不良にすら…なることができないんでちよ」
「え…」
 首をかしげたジョーを見上げるパピのデカ耳が、再びひくひくと動いて。
「誤解しないでほちいんでちけど、ボクは決ちて不良を肯定するわけじゃありまちぇん。グレて非行に走ったって、いいことなんか何にもないでちからね。でも、少なくとも…派手な悪さの一つ二つもやらかちて心にたまってる鬱屈を発散させることができる子なら、まだいくらか楽に生きられるのかもしれまちぇん。だからついつい、ボクは思ってしまうでち。いっそ、不良になってくれていればよかった…と。だけど、あの子たちにはしょれさえもできない…」
「おいこらワン公! あいつらのどこが不良じゃないってんだ! こんな夜中にふらふら出歩いて、コンビニの前でたむろしてるなんざ、どっからどう見ても立派な…」
「しょれでもあの子たちは、不良なんかじゃありまちぇんっ!」
 割り込んだジェットの声は、ほとんど怒鳴り声に近かった。だが、すかさず言い返したパピの口調はそれよりもさらに強く―あろうことか、ジェット―サイボーグ002を一瞬にして黙らせてしまったのである。
「…ねぇ、ジェットしゃん…。あの子たちは、『いい子』なんでちよ。…ううん、『いい子』でいることでちか自分の存在価値を認識することができないんでち。『大人に反抗ちない』『他人と争わない』『良くも悪くも目立つことはちない』…しょんな、大人たちにとって最高に『都合のいい子』でいることでちか…。でもねっ! しょんなの、子供とちてあまりに不自然すぎるでしょっ! だから彼らはとうとう我慢できなくなって、夜の街に出てきたんでちよ! 他人と出会えば心がすれ違い、軋轢が生まれる。だけどしょこで争いを起こちてちまえば、『いい子』とちての自分の存在価値、存在基盤が崩れ去る…しょんな、出口のない葛藤に耐え切れなくなった彼らの居場所はもう、夜の街にちかなかったんでち! 人通りが途絶え、誰とも顔を合わさずにすむ深夜の路上でちか、彼らは自由になることができなくなっちゃったんでちよ!」
 再びむき出された小さな牙、鼻の上に現れ出たしわ…あまりのパピの剣幕に、いつしか顔面蒼白になった(一応人間の)青少年ども。
「しょんな子供たちがやがて巡り会い、いつしか一つの集団をなすようになりまちた。そちて深夜の街でも特に人通りの少ない場所―公園の片隅とか工事現場の金網の中とか―に集まって、心の中にたまった鬱屈や悩みをあれこれ話し合うようになったんでち。たとえ大人の目にはどんなふうに映ろうとも、それは彼らが生まれて初めて得た本物の仲間、心の中身のありったけを思う存分吐き出せる大切な自分の居場所でちた。…で、しょこにたまたま通りがかったのがヤスしゃんだったんでち…よね、ヤスしゃん」
 突然出てきたヤスの名に、ジョーとジェットはますます目を白黒させる。だが、自分を振り返ったパピの瞳、そしてやや遅れて同じく自分を見つめた二人の『ダチ』の瞳―。
 ヤスはそんな三つの視線をたじろぐことなく受け止め、静かにこう、告げたのだった。
「ああ。みんなお前の言うとおりだよ、パピ。長々と喋らせて悪かったな、疲れたろ…。あとは俺が代わっから、お前はちょっくら休憩してろや」
 


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