桜の花満開を過ぎても 2


「…ねぇ、前から聞いてみたかったんだけど『西王母』のママさんって、大人にとってはどんな存在なの? …もしかして…恋…人?」
 フランソワーズの言葉の最後は消え入りそうに小さなつぶやきだったが、そこはそれ。彼女には及びもつかないにせよ、常人の数十倍に高められた聴覚のおかげでしっかりとそれを聞き取ってしまった張々湖は、今まさに飲み込もうとしていた湯呑みの中の烏龍茶を思いっきり噴き出した。
「フ、フランソワーズッ!…いきなり、何言い出すアルね」
 一瞬怒鳴りかけたのを、鋼の自制心で無理矢理通常の声に戻す。…今朝、フランソワーズに機嫌を直してもらうためにどれだけ苦労したことか。あれをまた繰り返すなんて、考えただけで背筋が寒くなる。
 慌ててテーブルの端の布巾に手を伸ばし、こぼれた烏龍茶をせっせと拭き取る張々湖の脳裏に、つい今しがたの記憶がありありと蘇ってきた。

 昨夜家に帰り着いたときにはさすがのみんなももうすっかり寝静まっていたので、張々湖はできるだけ静かに自室に戻り、そのままベッドにもぐりこんだ。
 そして一夜明けた朝食の席で、テーブルを囲んでいた仲間たちに深々と頭を下げたのだが―。
「いやいや、そんなに気にせんでも…大人。仕事帰りにちょいと一杯、なんてのは誰にでもよくあることでは…ないのかな?」
「おまけに昨晩は運悪く、我々全員が早めに帰ってしまったし…手持ち無沙汰だったんだよ…なぁ? 大人」
「そうだよ。何てったって大人は僕たちよりずっとオトナの男だし…そうそう滅多なことも…あるわけ、ないだろうし…」
「ソウダヨ。シカモ大人ハ『さいぼーぐ006』ナンダモン…。チットヤソットノあくしでんとデドウコウナンテコト、アルワケ…ナイヨネ?」
「そーだそーだ。俺たちは大人を…サイボーグ006を心の底から…信頼してたぜ? なぁ」
 ギルモア博士とグレート、ジョー、イワン。そしてたまたまメンテナンスのために来日していたジェットの男性五人組は、至極寛大に張々湖の謝罪を受け入れてくれた。
 …だが、皆の言葉尻がどことなく頼りないような…やたらと「?」マークや「…」が乱発され、どうにもこうにも歯切れが悪いのは何故だ? 精一杯微笑んでいる顔が妙に引きつっているように見えるのは気の所為か? 第一、張々湖に向かって話しているはずなのに、言葉の途中からその視線が微妙に―とある一点に向かって―ずれていくのはどういうことなのだろうか。
 …潜在意識の奥底では、その答えはとうにわかっていたはずなのだけれど。
 できることなら知りたくなくて。わざと凝視を避けていた「そこ」を、恐る恐る振り返ってみれば。
 潤むどころかあふれんばかりの涙をたたえ、安堵と怒りの混合物質を燃料として冷たく燃える水色の瞳と、もろに目が合ってしまった。
「フランソワーズ…」
 続く謝罪の言葉が張々湖の口から出るよりも早く。
「ねぇ大人…飲みに行くのはいいけど…せめて電話くらいはしてちょうだい…。本当に…本当に、心配…したんだからぁ…」
 ぽろりと涙がこぼれたかと思うや、金髪の少女は顔を覆ってさめざめと泣き出してしまったのである。
「…そりゃぁ…みんなの言う通り…大人は立派なおとなの男性だし…サイボーグ006だし…。だけどそんな大人だから…連絡もなしに…いつまでも帰ってこないんじゃ余計…心配になるじゃない…?」
 睨まれて小言を言われるところまでは昨夜のうちに覚悟していたが、まさか泣かれてしまうとは。張々湖の頭が一瞬にして真っ白になる。
「…もしかしたら、サイボーグでも大怪我をするようなとんでもない…事故に巻き込まれちゃったんじゃないかとか、不意の敵襲を受けて…もしや…なんて思って、私…私…」
「申し訳ないっ! わてが…わてが悪かったアルッ!」
 しゃくりあげるフランソワーズの足元に座り込み、何度も頭を床にすりつけて思いつく限りの謝罪の言葉を述べ、ついにはお詫びとして張々湖飯店特製豪華ディナーへの無料招待を約束してようやくお許しをいただき、無事朝食も済ませて食後の雑談が始まった瞬間の張々湖がどれほどほっとしたかは想像するに難くない。

(あんな思いをするくらいなら、怒鳴られてフライパンかまな板でも投げつけられた方がよっぽどマシネ)
 可愛くて、いじらしくて、いとおしくて。さながら実の娘のようにすら思っているフランソワーズに泣かれるのがこれほど痛いことだったとは、さすがの張々湖にとっても全くの想像外であった。
 だが、それとこれとは別。
「『西王母』のママさんって、…もしかして大人の…恋…人?」
 こんなことを言われては黙っているわけにもいかない。
(だけど、あまり怒ったふうを見せてもいけないアルね。平常心、平常心…)
 心の中でひたすらつぶやきながら、努めてさり気なく応える。
「あはは…。フランソワーズは本当に面白いことを考えるアルね。ママとわてとはただの友達…いや、『ただの』でもないアルか…もーちょっとこう…なんつーか、『戦友』みたいなものなんアルよ」
「戦友?」
 いくぶん物騒な言葉に、他の連中の注目も一斉に張々湖に集まる。
「わてらの店がオープンしたのはほぼ同じ時期だったんアル。お互い何にもなしの―日本風に言えば『裸一貫』からのスタートやったネ…」
「確かにそうだったな…BGの基地から脱走し、叩き潰して日本に流れ着いたのはいいが、あの頃の俺たちには生活基盤が何もなかった…」
 張々湖の言葉に当時を思い出したのか、グレートの目も遠くなった。
「『国へ帰れば何とかなる』と思った連中はそれぞれ帰国して自分なりの生活を見つけた。ま、中には俺みたいにまたまた日本へ舞い戻ってきちまった奴もいるけどな。…正直、あのときゃ驚いたぜ。てっきり中国へ帰ったと思った大人が、日本であんな立派な店出してたんだからなぁ」
「帰ろうか、とはわても思たアル。でもナ…今さら戻ったところでわての土地は多分もう人手に渡っちまってるやろし…あのときの飢饉で村の連中も散り散りばらばら、知った顔は誰もいなくなってるやろと…。それなら日本に残るみんなと一緒にいたかったんヨ。結局あの店出すときにはギルモア博士やコズミ博士にも借金して、随分と迷惑かけちまったアルけど…」
「そんな昔のことをいつまでも気にせんでいいよ、大人。第一あのときの金はもう全部、コズミ君にもわしにもきちんと返してくれたじゃないか」
「そりゃ博士、人として当然のコトあるね! まぁでもとにかく、店を開いた頃のわてには『自分のもの』なんて何一つなかたのコトよ。店自体だって、借金返すまでは人様からの借り物だ、思てたアルからね」
「そんな律儀なところが大人らしいよね」
「真面目だからなー、大人は」
「律儀も真面目もちゃうアル、ジョー! ジェット! 人様からの恩を忘れて何もかも全部自分一人で手に入れた、なんて考えたらそこでもう終わりアルヨ! 商売も、人生もナ…」
 つい説教じみてしまった言葉に、ジョーもジェットも慌てて―そして素直にうなづいてくれた。そんな少年たちも、張々湖にはやはり可愛い。フランソワーズが娘なら、ジョーやジェットは息子といったところだろうか。
「まぁそんなことはともかく…どうやらあそこのママも、わてと似たり寄ったりの境遇だったみたいでナ。華僑の資産家のお嬢様に生まれたそうなんアルけど、お父はんが早うに亡くならはって、親戚に財産全部騙し取られて…そりゃもう、大変な苦労をしてきはったらしいんヨ。初めて会ったのは商店会の寄り合いか何かだったか…お互い、借金抱えてやっとの思いで店を持ったちゅうことがわかってからはすっかり意気投合してナ。店も近いことやし、ちょくちょく顔を合わせるようになって…そのたびに、いろいろ励まし合ってきたんアル」
「そうだったの…」
 しみじみとつぶやいたフランソワーズに、張々湖は軽く笑って。
「ジョーには悪いが、わてらみたいな外国人が日本で商売するちゅうのは並大抵のことじゃないアル。特にわてらの国とは、先の大戦のしこりが今よりもっと色濃く残っていたでナ。時には蔑まれ、取引を断られ…結構苦労したのコトね。それでもわてがここまで頑張ってこられたのはママがいたからアル。同じ国出身、同じような境遇でスタートしたあの人がまだ頑張ってはるんなら、わてだって負けられないやろ?…ましてわてにはグレートがいてくれたけど、彼女はたった一人で自分の店を切り盛りし、育ててきはったんやからネェ。今日のわてがあるのは全て、あのママへの意地のおかげだったかもしれないヨ」
 それは、誰もが初めて聞く話であった。言葉を失う一同へ、張々湖はわざと大きな声で笑ってみせる。
「ま、そんなのはみんな昔のコトネ。今のわては押しも押されもしない天下の張々湖飯店オーナーあるしナ…あ、もっとも半分はグレートのもんやったか」
「そんなことないさ、大人。共同経営者とはいえ、俺は結構好き勝手させてもらってるからな。イギリスにもしょっちゅう里帰りしてるし、今回の市民劇団の話だって、店にはかなり迷惑かけてると思うよ。悪いな」
「何言うてるアル! あの劇団のオーナーは隣町の町会長はんアルやろ! うちにとっても大事なお得意様ネ。ええかグレート! 決してオーナーのご機嫌損じたらあかんヨ。でもって、この先公演の打ち上げその他には必ずうちの店使こてもらえるよう全力を尽くすヨロシ! わかったアルか!?」
 思いがけないところではっぱをかけられ、グレートが肩をすくめる。
「やれやれ。じゃ俺は張々湖飯店の秘密工作員かよ。…ま、でもいいや。もともと俺の受持ちは諜報活動、各種工作だからな。我が主の命を果たすべく、騎士グレート、いざこの身の全てを賭けて新たなる戦いに赴かん…!」
 お決まりの大仰な身振り手振りで跪いたグレートに、張々湖もまた皇帝のようにふんぞり返って大きくうなづく。二人お得意の場を和ませるパフォーマンスに室内はどっと沸き、それでとりあえず雑談もまた、お開きとなった。

 だが、それから昼になっても夜になっても。
 フランソワーズのちょっとした問いかけは、丸一日中張々湖の心の中で繰り返し、鳴り響いていたのであった。

(「西王母」のママさんって、…もしかして大人の…恋…人?)
(ママさんって…)
(もしかして)
(恋…人…?)
(恋人?)
(恋人…?)

 最近とみに日本料理にも興味が出てきたとみえて、自室で「豆腐百珍」などひもといていた張々湖、またも蘇ってきた可愛い「娘」の声にぶるぶるぶる…っと激しく首を横に振る。
(ああもう…! いい年していつまでも何考えてるアル! ママとわてとは決してそんなんじゃないアルのに…「戦友」…そう、「戦友」アルヨ。第一あのママはもう五十過ぎ…。わてよりずっとずっと年上やないか!)

 もちろん張々湖とて、「年上の女」に十数年来の思いを寄せている石原医師のような人間がいることは知っている。だがそれも、「若さゆえの情熱」というものであろう。すでに人生の後半に―いや、実際この先どれほどの長い人生が続くかは神のみぞ知るところではあるが―さしかかろうとしている自分にそんな、華やいだ季節が再びやってくることなど想像もつかない。

 だが。

 それからわずか数日のち、張々湖は今度こそ、思いがけないアクシデントに見舞われることになるのである―。
 


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