桜の花満開を過ぎても 3


 いよいよ、グレートが指導している市民劇団の公演当日がやってきた。
「ほらグレート! 何ぐずぐずしてるアル! 開演時間に間に合わなくなっちまうアルヨ。さ、こっちはもういいからさっさと仕度するヨロシ!」
「い、いや…まだもうちょっとは大丈夫…だろ? いくら何でも今抜けるわけには行かないよ。洗いもんだってこんなにたまってるじゃないか」
「それなら俺がやりますから、気にしないで下さい」
 張々湖にどやされてたじたじになったグレートの背中に、コックの陳の明るい声が飛んだ。
「何てったって来週のあの大宴会はグレートさんのおかげなんですから。グレートさんがあそこの演技指導を引き受けてなかったら、絶対取れませんでしたよ」
 それを聞いた張々湖も満面の笑顔になって。
「そうそう。劇団員とその身内、後援者併せて総勢百名の宴会なんて、このご時世では願ってもない大仕事アルヨ。…でもってその名目は、今日の公演の打ち上げアルやろ!」
 瞬時にその顔から笑みが消え、商魂燃え盛る小さな目が、再びグレートを睨みつける。
「最後の最後でオーナーのご機嫌損ねて予約取り消しなんてことになったらどうするアルネ! 今日は会場に一番乗りして、じっくりしっかり『教え子』の芝居見届けるヨロシ! …ついでにメニューの最終打ち合わせもよろしくナ。そろそろ仕入れの手配もしとかんと間に合わないアルからねぇ」
 そこまで言われてはグレートも苦笑するしかない。
「かしこまりましてございます、陛下。騎士グレート、お心のままにいざ、出陣!」
 さすがにこの張々湖飯店厨房で跪くことまではしなかったが、それでも充分に仰々しい騎士の礼をしたグレートがあたふたと出て行くのを見送っていた張々湖と陳のところへ。
「店長! 何かお手伝いすることはありませんか? 今、グレートさんが出てったのを見かけたから…」
 厨房の入り口からひょいと顔を出した事務員、羅の真面目くさった顔に、張々湖は再び満面の笑みを取り戻した。
「おお、羅! 気が利くアルね。それじゃそこのキャベツむいて、洗っておくヨロシ。陳! さっき足りない言うてたのは回鍋肉用のキャベツアルな!」
「はいっ」
 偶然にも重なった陳と羅の返事に、張々湖の笑みはますます深くなる。忙しくて目の回りそうな、それでいて誰にとっても幸福で和気藹々とした、張々湖飯店厨房でのひととき―。

 しかしやはり、あの時点でグレートに抜けられたのは痛かった。それからの張々湖飯店の忙しさときたら、それはもうとんでもないもので。しかもこの前のような定休日前日でもなかったこととて、店が終わったそのあとには翌日の仕込みがしっかりと待っていた。
 店長もコックも事務員もなく、こまねずみのようにくるくると立ち働いた三人の仕事がようやく終ったのはいつもよりずっと遅い、真夜中近くになってからのこと。
「陳も羅も、今日は本当にすまんかったナ。こんな時間まで働かせて、これじゃ帰りは完全に午前さまアルねェ…」
 ぺこりと頭を下げた張々湖に、陳が笑って手を振った。
「気にしないで下さい、店長。俺たちの家は店からすぐだし…タクシー使ったってワンメーター、ヘタすりゃ歩いてだって帰れるんですから。なぁ、羅?」
「そうですよ。それより店長の方が…。電車…まだあるかな?」
 羅に言われて、張々湖もちょっと考え込む。
「うーん…ま、この時間なら多分大丈夫やろケド…これから駅まで歩くのも何だか億劫になっちまったヨ…。いっそ、店の車借りて帰っちまおうかネ」
 「店の車」というのは、張々湖飯店が大口の出前などに使っている小型バンのことである。
「ああ、その方がかえっていいかもしれませんね。この時間なら道も空いてるし、もしかしたら電車より早く帰れるんじゃないかな」
「幸い、車使うような出前は明日の昼までありませんし、朝またあれで店に来てもらえば仕事の方も大丈夫ですよ、店長」
「おお、それじゃそうするヨロシ。じゃ、二人ともまた明日ナ」
 そして二人を送り出し、店の施錠を確かめた張々湖はそのままガレージに出た。電動シャッターのスイッチを入れ、車に乗り込んでエンジンをかける。そしてシャッターがすっかり開いたのを確かめてから、いざアクセルを踏み込もうとしたその瞬間、その小さな目が、信じられないものを見つけてしまった。
「はぁ!?」
 一人運転席で素っ頓狂な悲鳴を上げ、ごしごし両手で目をこすってもそれは消えてくれない。だがこんな時間に、こんなところでこんなものが見えるわけがない。そう…絶対にありえないことだ。

 ガレージの脇―正確には店の前の舗道というべきか―に、人間の…それも女のふくらはぎが一本、乱暴に投げ出されているなんて―!

 車内から見えるのはそのつま先から膝のあたりにかけてだけ。それから上はガレージの壁に遮られてよく見えないが、まさか切断されているなどということは…絶対にあってほしくない。第一、そこから上が無事本体にくっついていればいいという問題でもなかろう。脱兎のごとく車から飛び出し、あたふたと目の前の足に駆け寄る張々湖。
 幸い、その足はちゃんと持ち主にくっついていた。だが―。
「アイヤアアァァァッ!!」
 その持ち主の正体を認識した瞬間、先ほどよりもさらに大きな悲鳴を上げた彼を、どうか責めないでやってほしい。
 何故なら―だらしなく店先に座り込み、ノースリーブの肩口から飛び出した腕、裾から深く入ったスリットをはねのけた足を勝手放題に投げ出したままのあられもない格好で白河夜船を決め込んでいたのは―。
 まぎれもない「西王母」のママ―張々湖にとっては仲間や従業員と同じくらい大切な「戦友」、その人だったのだから。
「マ…ママ! ママママママッ! 一体どうしたアル! しっかりするヨロシ!」
 その細い身体に抱きつかんばかりに絶叫する張々湖を、鬱陶しげに振り払う白い指。
「う…ん…。もう…。せっかくいい気持ちで…寝てるのに…どこのバカだい…? うるさいよ! あ…ん…さっさと…あっちへお行き!」
 言葉とともにもれる吐息が酒臭い。張々湖の顔が、泣き出しそうに歪んだ。
(まさかママ…どっかで大酒飲んで、こんなところで酔い潰れちまったアルか―?)
 ありえない。そんなこと、絶対にありえない。ママの酒の強さはこの商店街でも有名だし、それにもしも―もしも、酔い潰れてしまったにしても。
(ママがこんな姿を客に…いや、他人に見せるはずなんか絶対にないアル! 何があろうとも…そう、絶対に―)
 いつだったか、たちの悪い客が「西王母」にやってきて、ママに無理矢理ボトル一本空けさせたことがあった。たまたま居合わせた張々湖とグレートがたまりかねて間に入り、最後は半ば力ずくでその客を追い返したのだが―。
(ありがとうね。助かったよ…。でもちょいと化粧が崩れちまったから、直してくるね)
 丁寧に頭を下げたものの、ママの姿はそれっきり店に現れることなく―。
 帰り際、心配になった二人がそっと従業員控え室を覗いてみれば、ソファに横たわり、真っ青な顔で荒い息をつくママの姿。頬には涙のあとがいく筋も残り、すっかり色を失った唇を押さえたタオルは小刻みに震えていて―。

 あんな目に遭って。あんな苦しい思いをして。

 それでもにっこり、艶やかに微笑んで「ありがとうね」と言ってくれた女―。
 その彼女がこんなになるまで飲むなんて―。

 一体、何があったというのだろう?

 とにかく、このまま放って置くわけにはいかない。幸いママの家は張々湖もよく知っている。店から歩いて十五分ほどの、こじんまりとして洒落たマンション。
 ぐったりと意識のないママの身体を抱き起こし、その下にもぐりこんで背負い上げようとした張々湖の腕が、ふと止まる。
 それは…ママのトレードマークともいえる中国服がいつもと違っていたから。
 黒い絹。飾りも刺繍も何もない、金具やボタンさえも漆黒の―初めて見る装い。

 その意味するものといえば―。

(まさかママ…これは…喪服なんアルか?)
 だが今は、そんなことを詮索している場合ではない。張々湖は唇を噛みしめ、ママの細い身体をしっかりと背負い、ゆっくりと彼女のマンションへ向かって歩き出した。
 


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