桜の花満開を過ぎても 5


 ゆっくりと振り向いた張々湖の顔からは、いつものあの人懐こい笑みが完全に消えていた。
「ママ…? もしかして…わてに…訊いてほしいんアルか? 怒ってほしいんアルか?」
 そこから先を、果たして言葉にしてしまっていいのだろうか。
 しかしベッドの上のママはなお、すがりつくような黒い瞳で真っ直ぐに自分を見つめていて。
 言わなければならない―。何の脈絡もなく心に浮かんだ衝動が、次の瞬間はっきりとした言葉となって口からほとばしり出る。
「一人になるのが…嫌なんアルか…?」
 返事はなく、目の前の女はただかすかにうなづいただけ。でも、それだけで―充分。
「わかったアル。ならわて…帰らんから。あんたはんの気が済むまでここにいるアルから…もう何も、心配せんといてナ。怖がらんといてナ。…わてが、一緒にいてあげるから…いい子でねんね…ねんねしよナ…」
 あたふたと枕元に戻り、華奢な肩を抱いて必死に言い聞かせる張々湖に微笑を見せたのもほんの一瞬。あっという間に女は張々湖の腕から抜け出し、ぷい、と横を向いたまま再びベッドに倒れこむ。
 沈黙。
 でもそれは、拒絶ではない。
 それが、はっきりわかるから。
 「そばにいて―!」という無言の叫びがはっきりとその耳に、聞こえたような気がしたから。
 張々湖はそれからもずっとママの枕元に居座り、ただ黙って自分に向けられた背中を見つめていた。

 そして―どれくらいの時間がたったのだろう?

「あたしは―」
 ようやく聞こえてきた声はあくまでも小さくて。
「恋愛沙汰には向かない女だと思ってた―」
 多分それは、肯定も否定も求めていない、ただの独白。だから、張々湖はいまだ沈黙したまま。
「負け惜しみでも自慢でもない…。ただの『客観的事実』ってやつさ…。ほんの小さな子供の頃から―まだまだ幸せな『お嬢様』だった頃から―あたしは将来、誰かの隣で小さな子供をあやし、妻として、そして母として幸せに暮らす自分なんて想像できなかった―」
 頑なな背中。
「こんな有様になっちまってからは余計だよ。毎日毎日、生きていくだけで精一杯―のんびりゆっくり、男と甘い夢に浸るヒマなんてこれっぽっちもなかった。…そりゃ、あたしだって夜の商売してるんだ、いろんな男を見てきたし、いろんな男と浮名を流したこともあるさ。でもそんなの、みんな遊び。どんなに求められ、すがりつかれても―時には『一緒になってくれないなら死んでやる』なんて刃物出されて脅されても―あたしの気持ちは冷める一方。そしてとうとう、たった一人でここまで…きちまった…」
 そこでぱっと振り向いた顔。一杯に見開かれた、小さな子供のような、黒い瞳。
「だけど、そんなふうにしか生きられない女だっているんだ! そうさ、あたしは誰かに養ってもらって生きるより、自分の力で―どんなにもがき苦しんでも、自分自身で泥をかぶって、泣いて、笑って―生きる方がはるかに性に合ってた…それ以外の生き方なんて、考えたこともなかったんだよ! もしかしたらそんなの、女としてはどっかおかしいのかもしれないけど…」
「…そんなこと、ないアルよ」
 身を切るような絶叫に、ついつい張々湖は口を挟んでしまった。
「世の中、いろんな人間がいるものアル。愛や恋よりも商売が楽しくて、自分で自分の人生を切り開く手ごたえが何よりの喜びだと感じる―そんなおなごはんがいたところで、わてはちっとも、おかしいとも変だとも思わへんヨ…」
 思いがけない肯定に、ママの表情もほんの少し―和らぐ。
「ありがと…。でもあたしゃ、今さらそのことをどうこう弁解するつもりなんてないんだ。…ただ、それでも。こんなあたしでも一度だけ―一度だけ、心の底から愛した人がいたってことを…誰かに、聞いて…もらいたくて…」
 瞬間、張々湖の身体がびくりとこわばる。こんな話の流れになったからにはある程度、予想できた言葉ではあったけれど―できれば、聞かずに済ませたかった台詞。
「あれはまだ、あたしが銀座で雇われマダムをしてた頃だった…。どっかの広告代理店の課長だったか部長だったか…結構口は悪かったけど、あたしらみたいな水商売の女にも本当に、優しい人でねぇ…。お愛想だのお世辞じゃなくて、あくまでも対等の人間として接してくれた。あたしゃそれで、イチコロになっちまったのさ。だけどそのとき、あの人にはもう家庭があったから…。壊したくなかった…あの人の家庭を、あの人の大切なものを! そんで結局手も握らず、キスの一つもしないまま、今まで…。ねぇ大人、おかしいだろ? それまで相手に女房がいようが子供がいようが、欲しいものには好き勝手に手を出してきたこんなあばずれが…こんな自分勝手な我儘女がさ、何を今さら小学生みたいなプラトニックラブなんか…」
 引きつったような笑いが、張々湖の―常人よりはるかに敏感な―耳をつんざく。
「今の店を開いたときにも、あの人…すごく喜んでくれて…ついこの間まで、暇を見ちゃぁ顔出してくれたんだよ。時には一人で…時には会社や取引先の誰かを連れて。でもって、そのたんびに『ここはいい店だ、何よりママが素晴らしい』って一生懸命宣伝してくれて…あはは。そりゃあ、相手は広告のプロだもんね。おかげで店の常連も随分増えてさ…。だからあたしは、それだけでいいと思ってたんだ! あの人があたしを、あたしの店を好いていてくれてるって、それだけは痛いほどわかったから。男と女の関係になんてならなくていい、好きでいてくれるだけで充分だって…しおらしくさぁ…」
 一瞬の、間。それが意味するものは、一体何なのだろう。
「ここしばらく…そう、半年くらいかねぇ…。あの人、ぱったり顔を見せなくなっちゃったんだよ…あたし、仕事が忙しいんだと思ってた…だって、今までにもあったんだもん。半年どころか一年近く顔を見せなくてさ、でもって久しぶりにやってきたくせに、でかい顔して好き放題なんてこと…よく…あったから…」
 途切れた言葉を継いだのは、細く長く続く嗚咽。
「なのに…昨日、葉書が届いたんだ。あの人の奥さんの名前で…黒枠で縁取られた、愛想もクソもない死亡通知がっ! …ガンだったって…! まだ若かったから進行も早くて、手の施しようもないうちにあっさり逝っちまったってさぁ! 何で…何でこんなに早くいなくなっちまったんだよおおおぉぉっ! そりゃあの人…あたしより年上だったけど…でもまだ…まだ、六十前だよ!? まだまだ若くて…これからもっともっと、いろんなことがやれたはずじゃないか! なのにどうして…どうして…こんなに早く…」
 泣き崩れたママに言うべき言葉を張々湖は持たなかった。理不尽な死。あまりにも早く失われた命。…そんな悲劇は世界中に転がっている。サイボーグとなってから数限りない戦場に立ち、数え切れぬほどの命の終焉を目の当たりにしてきた彼の中からは、今さらそれを嘆く言葉も、残されたものを慰める術もとうに失われていて―。
 だけど、そんなことを話したところでママの哀しみを癒してやれるはずなどあるわけがない。ママもまた、そんなものは最初から期待していなかったのかもしれなかった。
 あらゆる癒しや慰めを拒絶してひたすら泣き続ける女と、あらゆる癒しや慰めの手段をとうの昔に失くしてしまった男―。
 一つ部屋にたった二人きりでいるというのに。互いの間にくっきりと刻まれた、越えることのできない亀裂―底も見えぬほどの暗黒の深遠を、張々湖は確かに見たと思った。

 それでもいつか、泣き声は次第次第に小さくなって。
「…もしかしたら、『まだまだ若い』なんて思い上がっていたのはあたしたちだけだったのかもしれないねぇ」
 再び聞こえてきたつぶやきにはもう、涙などこれっぽっちも混じっていなかったけれど。
「あたしゃ、今度のことで初めて思い知ったよ…あたしの大切な人間―昔の男たちや、親友って呼んだ女たちはみんなもういい年齢…いつ、あの人と同じように…突然いなくなっちまうかわかんないんだ。…きっとこれから先、あたしは今日のような思いをたくさんするに違いないよ。そして…今度は誰がいなくなるかって―遠い昔のあの夢を共有した『仲間』が一人ずつ消えていくのをなす術もなく見送りながら―。できるなら自分が最後になることだけはないようにと―ただそれだけをひたすら願って、びくびくおどおど怯えながら暮らしていくしかないってことが、いやというほどね…」
「ママ!」
 これ以上黙っていることは、張々湖にはできなかった。
「そんなことないアル! ママもみんなも、まだまだそんなふうに老け込んじまうには早すぎるアル! 人生ちゅうモンは、わてらが思てるよりもずっとずっと長いんアルよ! そりゃ…その人みたいに…ママの大事な人みたいに…思いがけないほど早く…旅立たなきゃならん人も…いるかも…しれんケド…」
「おためごかしはよしとくれ!」
 鋭く言葉をさえぎったママの目は、どこか狂おしく、常軌を逸していて。
「あんたなんかに、わかるわけないよ! あたしたちよりずっと若い…これからの可能性も希望も、山のように持ってるあんたなんかにはさ!」
「そんなことないネ! わてだってもう、四十二アル。確かにママよりは年下かもしれんけど、人生の後半にはもう…しっかり足を、踏み入れているんやから…」
「四十二なんて、まだまだ小僧っ子さ。人生の後半? 笑わせんじゃないよ。あんたはまだ、その入り口に差しかかったばかりじゃないか!」
「でもママ!」
 だが、張々湖の悲痛な叫びはまるでママの耳には入っていなかったようで。
「ううん…それだけじゃない。年齢だけじゃなくて…」
 ふと目をそらしたママが、その淡い紅色の唇をぎゅっと噛む。
「あんたには、可愛い後継者がちゃんといるじゃないか。陳と羅…いい子たちだよねぇ…まだ若いけど、真面目で熱心で…何よりもあんたを実の父親みたいに慕ってる。万が一―万が一あんたに何かあったときにはきっと―あの子たち、泣いて、泣いて…それでもしっかり、あんたを見送ってくれるんだろうねぇ」
「そんな…。いやママ、確かに陳も羅もいい子たちやけど…でも、それを言うならあんたはんとこのお姉ちゃんたちだってみんな…!」
「一緒になんか、しないどくれ!」
 火を吹く一喝に、張々湖はすくみ上がる。
「うちの店のホステスなんか、みんな流れ者だよ。…それも仕方ないさ。いずれは自分で店持って一生この世界で暮らしてく覚悟があればともかく、そうでなけりゃ…若いうちのほんの数年しかできない商売だからね。国へ帰る、結婚する…そう言って辞めてった連中をあたしゃ何十人見てきたか。みんな、花のような笑顔で…喜んでうちから巣立ってったさ。でもって、しばらくは手紙もくれる。電話もくれる。…だけどそんなの、せいぜい一年かそこらが関の山だった!」
 叫びながらしゃくりあげるママの顔は、まるで捨てられた小さな子供そっくりで。
「あたしは、自分の子供を持てなかったから…ううん、自分の意思で、持たなかったから…その分、あの娘たちを必死に育てた。夜の世界でだろうが、昼間の堅気さんの世界でだろうが、決して恥ずかしい思いをしないよう、女としてのたしなみも礼儀作法もとことんまで叩き込んでね。だけど、気がつきゃほとんどが音信不通だよ! ずっと幸せなままでいるのか、それとも不幸せになっちまったのかさえわかりゃしない。…今いる娘たちだって、いつかはみんなそうなっちまうんだ。あんたみたいに…あんたのとこの陳と羅みたいな子になんか、あたしゃ一度も巡り会えなかったんだよ!」
「…」
 返す言葉を失った張々湖に、ママはさらに言葉を続けて。
「おまけにあんたは、もっともっとたくさんのものを持ってる…」
 彼女が何を言いたいのか、すでに張々湖にはわからなくなっていた。
「あんたの店でよく見かける『お友達』。いろんな国の、いろんな年代の―みんなてんでんばらばらなくせに、それでも何だか、家族のような―ううん、もしかしたら家族以上の絆を持ってるかもしれないあんな人たちまで―。もしものときにゃ、悲しんで、嘆いて…それでもきっといつまでも覚えててくれる、実の子供みたいな連中に囲まれてるあんたに、今のあたしの気持ちなんて、わかるわけないよ!」
 張々湖は息を呑んだ。違う―それは違う!
 いやもちろん、00ナンバーの仲間たちや店の従業員がかけがえのない―家族以上の存在だということは、まぎれもない事実だけれど―。
(違うアルよ、ママ! わてだって…わてだっていつも―怯えてるアル。怖がってるアル! あの大切な―大切なみんなの一人でも失ってしもたら、わては一体どうなっちまうんやろと―。フランソワーズやジョーやジェットたちが、それに陳や羅がどんなに若いからって、わてより先に逝っちまうことがないなんて、誰に保証できるアル!? あのナァ…わては、今までたくさん見てきたんヨ。みんなと同じ…いや、もっとずっと若い…幼い子供たちが、思いがけない事件で、そして戦争で、あっさり死んでいくのをナ…。守ろうとした手が届かなくて、助けてやれなかった小さな骸を抱いて泣き明かしたことだって、一度や二度じゃないアル! 人間の命なんて、いつどこでどんなふうに終っちまうかわからんのヨ! ましてわてら、サイボーグは―)
 無言のまま。張々湖の胸の中で慟哭と絶叫がこだまする。
(どんなに平和に暮らしたいと望んでも、何かことが起きれば否応なく戦いの中に飛び込んでいくしかないから…。ねぇママ! わてだって、怖いんアルよ! 飛び交う銃弾が、敵の砲撃が、いつどこでわての大切な仲間を傷つけたり、命を奪ったりするんじゃないかと! 最後まで生き残ることが嫌なのはママだけじゃないアル! わてだって…わて…だって…)

 しかしそれを言葉にすることは―許されない。
 裸の心を受け止めるだけで、同じ心を返すことができないとき―一体、人はどうすればよいのだろう?

「…何だか、部屋の空気がこもっちまってるアルね。少し窓を開けてみるヨロシ。新鮮な空気を吸えば、少しは気持ちも変わるかもしれんアルよ…」
 ママへの気遣いというより、追いつめられた自分の逃げ場を求めて寝室の窓を勢いよく開けたとき。  張々湖の口から、思いがけない言葉がもれた。

「うわ…ママ…。綺麗アルなぁ…」
 


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