桜の花満開を過ぎても 6


 開いた窓の下、一直線に伸びる幹線道路。そしてその両脇に整然と並んだ―桜並木。
 もちろん花の季節はとっくに終ってしまったけれど、続いて萌え出した若葉がみずみずしい緑を精一杯に広げ、淡い街灯りに照らされて、都会の夜の闇の中に鮮やかな黒と薄緑―そして濃緑の―グラデーションを浮かび上がらせている。
 それまでの重苦しい空気も全て吹き飛ばしてくれるような美しさに、張々湖はしばらくの間窓から首を出したまま、陶然とその景色に見惚れていた。
 だが、背後から飛んだ声はあくまでもそっけなく―。
「何、うっとり呆けてるんだい。桜ってったって花なんかもう全部散っちまったじゃないか。あたしと同じ、とうに盛りを過ぎて…あとに残ってるのは葉っぱだけだよ。桜の葉っぱなんか、鬱陶しいくらい茂るだけ茂ったってせいぜい毛虫のエサになるくらいにしか役に立たない、いつか散っていく日を待ってるだけのゴミクズじゃないか!」
 目の前の幻想的な光景に対するあまりの酷評に、張々湖はつい振り向いてしまった。
「そんな…。そんなことないアルよ。だってママ、ほら…」
 そう言って外を指差したところで、もちろん返事などない。張々湖は力なく、また窓の外に視線を移した。
「本当に…そうなんやろか。桜の盛り―みんなに愛され、心地よい夢を見られる幸福な時期は、本当に…花の季節だけなんやろか…」
 葉っぱだって、こんなに綺麗なのに。清々しい若葉の緑と一口に言うのもおこがましいほどさまざまな、微妙な色合いを見せて風にそよぎ、重なったり離れたりしながらまた新たな形を、影を、そして色を作り出していく自然の芸術。
 人工の、こんなぼんやりとした灯りのもとでさえこうなら、もっと明るく暖かい太陽の光の下ではどんなに素晴らしい景色を見せてくれるだろう。
 ふと、張々湖の脳裏にある思い出が蘇った。

 あれは去年―それとも一昨年だったか。

 夏の盛りだった。このマンションの住人から頼まれた出前の帰り。
 さすがのサイボーグといえども、重い岡持ちを提げて真夏の太陽に照りつけられながらの出前は辛い。張々湖はつい、店とは反対側のこの桜並木の木陰でちょっとした休憩を取ったのだった。所々に置かれているベンチの一つに座ってやれやれと息をつけば、つい隣にも似たような人物が一人。いかにもこの春就職したばかりと思われる若いサラリーマンが、衿元のネクタイをほんの少し緩めながらペットボトルをラッパ飲みしている。
 もしかしたらジョーやジェット、いや、ピュンマあたりと同じ年頃だろうか…とちょっとした親近感を覚え、何の気なしに声をかけて。ほんの五分ほど交わした当たり障りのない世間話など、とっくに忘れてしまったけれど。
 それでも、彼が最後に言った言葉だけはいまだ鮮明に覚えていて。
(この桜並木は、僕にとってのオアシスなんです。僕は営業だから、どんなに暑くてもこんなスーツ着て一日中歩き回らなくちゃいけない。この木陰がなかったら、きっと真夏になる前にぶっ倒れてますよ。だから本当に―ここの桜には感謝してるんです―)

 あのときの若いサラリーマンの顔を思い出しながら、張々湖は先ほどの台詞をもう一度―繰り返した。

「桜の盛り―っちゅうやつはは、本当に、花の季節だけなんやろか…」

「確かに、満開の花を喜ぶ人はぎょうさんいるアル。咲き始めてから散るまで、花見や夜桜やちゅうて、数え切れんくらいの人間がやってきて、飲んだり食べたり遊んだり、そりゃもう賑やかアルしなァ。
 …人間以外の生き物だって同じことアル。冬の間中、食べるモンなくてひもじい思いをしていた小鳥たちにとっちゃ、桜の花の蜜は久しぶりのご馳走ネ。ちゅんちゅん嬉しそうに飛び回って、花の根元つっついて…。あの嬉しそうな姿見るたび、わても何だかうきうきした気分になってくるアルよ。
 …でも、そんな幸せな時間は花が散っちまったらそれでもう終わりなんやろか。桜の葉っぱを喜ぶのは、それをエサにする毛虫たちだけなんやろか。真夏の猛暑に汗だくのふらふらになって、あの木陰でほっと一息ついて―心の底から桜の葉っぱに感謝した人間は、わてとあの、サラリーマンの兄ちゃんだけなんやろか…」

 独り言のように。誰かへの問いかけのように。
 張々湖の言葉は風に乗って夜の街に流れ、やがてひっそりと消えて行く。

「秋になって、ほんのりと赤く色づいた桜の葉っぱを綺麗だと思う人は誰もおらへんのやろか。
 冬になって落っこった葉っぱ…それを掃き寄せて焚き火をするのがわては好きだったアルよ。芋焼いて、火傷しそうに熱いやつをみんなでふうふういいながら食べてナ…。もっとも今は焚き火なんかほとんどでけへんけど…でも、人間以外の小さな生き物たちにとっての落ち葉ちゅうモンは、今でもありがたいモンなんじゃないやろか…。
 落ち葉の陰で、それから土の中で冬を越す色々な虫の卵やさなぎ―そんな小さな命が厳しい冬を越せるのは、枝から落ちた枯葉があったかいお布団になって優しく守ってくれるからやないんやろか…」

 取りとめもなくつぶやく中年男の頬をくすぐる柔らかい春の風。その感触に何故だかあの金髪の「娘」の笑顔を思い出し、自称「父親」は照れくさそうに頭をかく。

「あはは…もっともそんなん、わてらの勝手な思い上がりかもなァ…。桜にとっちゃさぞ迷惑な話かもしれへん。花の季節には人間どもにぎゃあぎゃあうるさく騒がれて、蜜目あてのチビ鳥どもには、つぼみも花も手当たり次第食いちぎられて…。
 葉っぱになれば見向きもされず、毛虫に食い散らかされて丸坊主にされるばかりで―。もしかしたらそのおかげで、自分自身の子供―可愛いさくらんぼの数がえらいこと減っちまうかもしれへん。でもナ―」

 耳の奥底、自分を呼ぶ「娘」の―そして「息子」たちの声が聞こえたような気がした。

「そのことで桜は怒るやろか。花を咲かせてるときばかりちやほやしやがってとか、大事な花や葉っぱ食われて、可愛いさくらんぼの数が減っちまった言うて―。
 人間たちが自分の花の下で、日頃の憂さを忘れ、ほんのひとときでも楽しい時間を過ごすのを見て、桜は一緒になって楽しんだりしないんやろか。
 たとえ自分の子でなくとも、ひもじさに泣いてた小鳥が自分の花の蜜でお腹一杯にして、機嫌ようころころ遊ぶ姿を見て、嬉しいとは思わへんのやろか。
 自分の葉っぱ好き放題食い散らかした毛虫がやがて綺麗な蝶々になって飛び立つのを見て、愛しい、可愛いと目を細めたりは―せんもんなんやろか。
 枝から離れ、冷たい土の上で最後の眠りにつく葉っぱは、せめて自分の下で息づく小さな命に、次の春への夢を託したりはしないもんなんやろか―

 そりゃ、季節が変われば―人間も小鳥も毛虫も桜のことなんかきれいさっぱり忘れちまうかもしれん。あんなに綺麗だった花も葉っぱも、枯れて地面に落っこちれば遠慮会釈なく踏みにじられ、邪魔にされて―誰にも見送られることのないまま、ひっそり土に還るしかないのかもあらへん。
 なのにそれでも毎年毎年、新しい花が咲いて、新しい葉っぱがぎょうさん茂るのは、一体どうしてなんやろナァ…」

 春風の優しい感触に誘われたように、とめどなく喋り続ける張々湖。もしかしたら今の彼は背後のママの存在すらすっかり忘れ果て、ただ自分自身を―多分このまま、小さな可愛いさくらんぼを残すこともなく、サイボーグとして―望めば永遠すら夢でなく、そのくせ明日にでも終ってしまうかもしれない異形の人生を―歩んでいくしかない自分を慰めるためにだけ、語り続けていたのかもしれなかった。

「ああもう、うるさいねぇ! あんた、いつまで一人で埒もないことをぐたぐたくっ喋ってるつもりだい!?」
 突然の鋭い声に、張々湖ははっと正気に戻った。いけない―今、慰めを欲しているのは自分ではないのだ。誰よりも愛した人を失い、自分よりもはるかに傷つき、哀しい思いをしているこの女だったのだ―。
 一瞬とはいえそんなママの存在を忘れ、自分だけの世界に浸りきっていたことにすっかり恥じ入ってしまい、あたふたとベッドの脇に戻って平身低頭謝り続ける張々湖の姿は、傍から見ればさぞかし滑稽なものであったろう。
「ごめん…ごめん、ママ! あんたはん放っといて、自分だけでぶつぶつわけわからんことを…。気に障ったら謝るアル。…ごめんナ。悪かったヨ…どうか…どうか、堪忍ナ…」
「…ふん。本当にうるさかったよ。桜がどうした、小鳥や毛虫がどうした…。あんた、あんな台詞であたしを慰めているつもりだったのかい? それとも、説教してるつもりだったのかい?」
「とんでもないアル! わては…わては、ただ…」
 ひたすら頭を下げながら、張々湖はふと首をかしげた。酔いに任せ、悲しみを理由に果てしなく自分にからんでいるはずのママの声が、ほんのわずか変化していることに気づいたからである。
 はっと顔を上げればベッドの上、真っ直ぐにこちらを向いたママの瞳がひたと自分を見つめていて。
「それとも…ねぇ大人。あんた、あたしを口説いてるつもりだったのかい?」
 


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