桜の花満開を過ぎても 7


 思いがけないことを言われてはっと身を固くするよりも早く―。

 ママの手が素早く張々湖の手を捉えて引き寄せ、その指を口に含んで軽く―噛んだ。
「ママ…!」
 予想外のことに張々湖は動揺する。だが、その指を引き戻そうとは思わない。淡い紅色に染まった柔らかい唇、かすかに指を噛む真っ白な歯の感触は、自分から放棄するにはあまりに甘く、えもいわれぬ快感に満ち溢れていた―。
「ねぇ…もし今、あたしが『抱いてくれ』って言ったら…どうする?」
 一瞬、目を見開いた張々湖。だが次の瞬間、その目はママの狂おしい視線を正面から受け止め、そしてかすかに細められ―。
「そりゃ、願ってもないお申し出アルね…」
 言いながら、張々湖は静かにその指をママの口から引き抜く。そしてそのまま淡い紅色の、かすかに開いてしっとりと湿った唇を、そっと、なぞって―。
「わてだって、これでも立派な『男』アルからね。そんなこと言われて正気でいられるわけ、ないやろ…?」
 耳元でささやけば、ママはかすかに微笑み、その瞳をそっと閉じる。やがて、長い時間をかけて存分に唇の感触を味わった指が、静かに―ゆっくりと下へ滑り降りた。
 あごからのど。滑る指は一本のはずだったのに、いつのまにかそれが二本に、そして三本に増え―のどの中央でふと止まり、脇へとそれる。ママの口元から、かすかな喘ぎが漏れた。
 ちょっと寄り道して軽く耳朶をくすぐった指がさらに下がる。先ほど外した金具はまだそのまま、ただ胸元に乗っているだけだった布地は、小指の先で弾いたら難なくめくれあがり、ママの滑らかな肌―鎖骨のくぼみがあらわになった。
 いつしか指は再び一本に戻り、艶かしい翳を落とすくぼみをゆっくりとなぞっていく。中央から左端まで、そして反対側に向きを変え、今度は右端まで。最後にもう一度首の付け根に戻り、ひときわ深いくぼみに指を置き、愛撫するようにわずかにまさぐってみれば、二度目の悩ましい喘ぎがママの唇から漏れる。張々湖もまた、ぐっと息を詰めた。
 と、そのとき―。

「でもな、ママ…。本当に、『今』がいいんアルか?」

 瞬間、閉じられていたママの瞳がはっと見開かれた。
 いつしか自分の肌から指を離した男はすっかりいつもの表情に戻り、あの人好きのする穏やかな笑顔で優しく女を見つめている。
「哀しゅうて淋しゅうてどうしようもないとき、そういう気持ちになる人間がたくさんいるのはわてもよう知ってるアル。おなごはんも男も関係ない、これは人間の本能みたいなモンやろナ。ただ、時と場合によってはそんなモン、まるっきり役に立たんこともあるのコトね。ましてあんたは…」
 再び伸びてきた張々湖の大きな掌が、ママの小さな顔をそっと―まるで大切な宝物を扱うかのように柔らかく、そしていとおしげに―包み込む。
「どんなときでも真っ直ぐ前見て自分の道を正々堂々と歩んできた、太陽のようなおなごはんや。当然、男とナニするのも、純粋にその行為を楽しむため、生きている喜びを存分に噛みしめるためやったんやろ? そんなあんたはんが、辛いこと、苦しいことを忘れるためにわてと―いや、わて以外の男とだって同じこっちゃ―どうこうなんてしたひにゃ、あとでえらいこと後悔するんとちゃうやろか」
「そんなことないよ、大人! あたしがああ言ったのは、あんただから…あんた…だったからっ」
 張々湖の手をつかんだママが叫ぶ。しかし張々湖は静かにそれをさえぎって。
「…わかってるアル。でもナ、ママ。だからこそ、えー…そのー…ま、そういうコトをやるならやるで、お互いうんと気持ちようなりたいやないか。第一、若いモンみたいにやたらと急いで、大事なトコまで一気に突っ走るちゅうのもナァ…よく考えてみりゃ、あまりに味気ない話やろに」
 そこで、照れくさそうにその大きな鼻をぼりぼりとかいて。
「わてらにだってナ、まだまだ時間はたっぷりあると…そう、信じようやないか。お互いが本当に楽しんで、心の底から気持ちようなれる夜だって、きっとこの先ぎょうさんあるはずヨ。料理かてナ、手間暇かけて時間かけて、あー、早よ食いたい思うのを必死に我慢して作った料理ほどうまいもんアル。どうせ二人で食べるなら、この世で一番豪勢な、うまい料理を仲良く味おうて食うヨロシ」
 そこまで言ったとき、とうとうママは噴き出した。
「ああ、もう…! あんたってば、どうして何から何まで料理に結びつけちまうんだろうねぇ。あーあ。おかげで色気も何も完全に吹っ飛んじまったよ。せっかくの据え膳だってのに箸も取らずに辞退するなんて、やっぱりあんたはおかしな男だ、大人」
「そ、そんなことないアル! わて、箸は一応ちゃんと取って…前菜の菜っ葉一枚くらいは頂いたかと…でもって、できればもっともっと食べたかったアルケド…」
 しどろもどろの弁明に、ママの笑い声はいっそう高くなる。
「もういいよ。あんたが今日、前菜だけで我慢してくれたおかげで目が覚めた。…男を亡くした淋しさをまた別の男で埋めようなんて真似は確かに卑怯。あんたに抱かれるなら抱かれるで、そのときはやっぱあんたを…あんただけを見つめ、あんただけを愛して…それがあたしのやり方だったはずだよね」
 そこで、まだ頬に残る涙のあとをぐい、と手の甲で拭って。
「…でもさ、もし今度…。今日よりもっと豪華で美味しい据え膳出したらさ、そのときは…ちゃんと食べて、くれるかい?」
「おお! もちろんネ! 最後に出てくるスープの一滴まで、わてきっと、残らず全部頂くよってに、覚悟しとくヨロシネ」
「そりゃこっちの台詞だよ。そんときゃ一晩寝かしてやらないからね、覚悟おし!」
「望むところアル!」
 どん、と胸を叩いた張々湖に、むくりと起き上がったママがそっと片手を差し出して。
「ありがとう、大人。…おかげであたしゃまた、覚悟が決まったよ。そうさ。あたしらにだってまだまだ時間はある。人生長いんだ。どうせなら最後の瞬間まで、とことんまで楽しまなきゃ損だってもんさね」
「そやそや! よく言うたアル! …それでこそ『西王母』のママ、わての大事な太陽はんや」
 張々湖もまた、その手をしっかりと握り返す。と、ママがちょっぴりいたずらっぽい表情になった。
「だけど大人、あんたって意外と食わせ物だね。料理以外には何も興味がない、色恋沙汰なんかにゃまるで疎い野暮天だと思ってたら、そのへんのジゴロやヒモなんかよりずっと女の扱い方を知ってるじゃないか。慰めて、その気にさせて、最後の最後でさらりとかわすなんて、焦らし方のコツもよくわかってるよ。こんなタラシがすぐそばにいたのに気づかなかったなんて、あたしもまだまだ修行が足りないねェ…」
 思いがけない賛辞に、張々湖はほんの少し―唇の両端だけで―笑った。
「アイヤー、そりゃとんでもないことネ。わてはただ、ママに元気になってほしかっただけアル。あんな台詞はママにだからこそ言えたんヨ。他のおなごはんになんてとてもとても…よう言わんネ」
「そんなこと言われると、また女はぐっときちまうんだよ。あはは…あんたはやっぱ、超一流のタラシだね」





 ママがだいぶ元気を取り戻したのを見届けた張々湖がその住まいをあとにしたのは、夜中―というより明け方に近くなってきた頃だった。いくら車でとはいえ、今からギルモア邸に帰るなんてことはちょっと勘弁してほしい。
(やれやれ…今夜はこのまま店の事務室のソファででも寝ることにしよかネ)
 大あくびをしつつ、ふと口元を押さえたその指の先に。

 今も残っている、ママの―唇の感触。

 しばし指先を見つめたその口元に、ふと、かすかな笑みが浮かぶ。
 これから先、自分たちはどうなっていくのだろう?
 もちろん「この世で一番豪勢な、うまい料理」を二人で存分に味わえる仲になれればそれに越したことはない。
 だが、もしこのまま―何もなしに終ってしまったとしても、それはそれでいいかもしれないという気もする。

(若いモンみたいにやたらと急いで、大事なトコまで一気に突っ走るちゅうのも味気ない話やろに)

 そう…確かに、若い頃は。
 ただ闇雲に先を急いでばかりいた。
 「触れなば落ちん」ものはみな、無理矢理にでももぎ取ることばかりを考えていた。
 力任せにもぎ取って―成就したものだけが「恋」だと、何の疑いもなく信じ込んでいた。

 でも、今は。

 落ちそうで落ちない、ゆらめきながらも艶やかに咲き誇る花、たわわに実った美しい果実を静かに見守る楽しみ、というものがあるような気がする。
 当然、落ちてきたときに受け止めるのは自分だ。他の奴になんか決して―渡さない。



 成就するもよし。
 成就せずともまた、よし。



 その両方を楽しみ、しみじみと味わえる年代に、ようやく自分はたどり着いたのだと思う。

 所詮。



 女は、灰になるまで女。
 男は、土に還るまで男。



 ならば、最後の最後までそれを楽しませてもらうことにしよう。
 若い頃は主菜を味わうことだけに夢中になり、副菜には目もくれなかった。今思えば随分と勿体ない真似をしていたものである。
(でも、これからは違うアルよ)
 前菜から最後のスープに至るまでの全てを、じっくりと味わいつくしてやろう。いや、舌だけでなく目でも、鼻でも―盛りつけや器の美しさ、そして食欲をそそる香りまでも思う存分堪能しなくては損というものではないか。
 もしかしたら人間という奴、年を取れば取るほどその手の楽しみには貪欲になるのかもしれない。
(色恋の道いうモンは、ホンマ、奥の深いこっちゃ。もしかしたら料理の道にも通じるところがあるかも知れん)
 だがそのような感慨など、それこそギルモア博士かグレート、あるいはコズミ博士でなくてはわかってくれないだろう。フランソワーズやジョー、そしてジェットを始めとする若者組に話したところで、きょとんと首をかしげられてしまうばかりに違いない。

(ま、こればっかりは実際にこのトシにならにゃわからんモンやし…でもナ、みんな。年を取るちゅうのも、そうそう悪いことばかりじゃないアルヨ…)

 すっかり人通りの途絶えた、夜明け前の薄暗い舗道をたった一人歩きながら。
 ふと昔懐かしいTVCMのコピーなど思い出し、密やかに微笑んで大きくうなづいた張々湖の胸中は、何とも言えぬ不思議な充足感に満たされていたのであった。















 ―恋は、遠い日の花火ではない―













 注:作中で使用したコピー(小野田隆雄氏)は平成7年(1995)度のサントリーオールドのTVCMに使われていたものです。

〈了〉



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