聖母(マドンナ)たちの謀略 上


 フランソワーズが誰にも内緒でこっそり藤蔭医師に電話をかけたのは、かなり長い間迷った末のことだった。
「もしもし、藤蔭先生でいらっしゃいますか? 私…フランソワーズです。実は、先生に相談したいことがあって…」
 さりげなく切り出したつもりでも声が固い。電話の向こうの相手も少なからず面食らって、かすかに眉をひそめているであろうことは気配でわかった。
 だがそれも最初のうちだけ、その後はいつもどおりの和やかな会話が弾み、次の日曜日に二人だけで待ち合わせる約束も無事取りつけた。フランソワーズはほっと安堵の息をつきつつ電話を切る。そして何気なく振り返った瞬間、その水色の瞳が大きく見開かれた。
「イワン!」
 何とそこには、例によってゆりかごごとふよふよ漂っている赤子の姿。
「いやだ…貴方、立ち聞きしてたの!?」
(ソンナコトシテナイヨ、人聞キノ悪イ…。ボクハタダ、張大人ガふらんそわーずヲ呼ンデタカラ探シニキタダケ。今夜ノめにゅーヲ相談シタイッテ言ッテタヨ)
「ま、まぁ、そうだったの。じゃぁ、すぐに行かなきゃ…」
 しれっとして言い放つイワンにひきかえ、すっかり慌ててしまったフランソワーズはそそくさとその場を離れようとする。しかし、この赤ん坊がこんな状況で素直に見逃してくれるわけがない。
(ダケド、藤蔭先生ト二人ッキリデコッソリでーとッテイウノハズルイナァ。ボクダッテ、藤蔭先生ニ会イタイノニ)
「あ、あのイワン、それは…」
(日曜日ノでーと、ボクモ連レテッテクレルンナラ、今ノ話ハミンナニ内緒ニシトイテアゲル。…ドウ?)
 すでにフランソワーズに選択の余地はなかった。

 そして日曜日当日、フランソワーズはイワンを連れて家を出た。仲間たちには、「イワンの夏物を揃えたいから」と言ってある。
 待ち合わせ場所は渋谷のとある喫茶店。天気もよいこととて、いつも以上に人出が多い。混雑する雑踏をかき分けながら、それでも約束の五分前には目的地に着いた。と…。
(アレ? ネェ、ふらんそわーず。アソコニイルノ、藤蔭先生ジャナイ?)
「え…?」
 見れば店の前、藤蔭医師と見知らぬ若い男が何やら言い合っている。耳をすませば、しつこくお茶に誘われてさすがの彼女といえども閉口しているらしい。
「大変!」
 とっさにフランソワーズは、イワンを抱えたまま走り出していた。その足音に気づいたのか、はっとこちらを振り向いた藤蔭医師に声をかけようとした、まさにそのとき。
 とんでもない台詞がフランソワーズとイワンの耳を打った。
「ああ、やっと来たわ、うちの『娘』と『孫』が。ごめんなさい、私これから親子三代でデートなの」
 途端、男が目を剥いた。
「む…娘ぇっ? 孫ォォォォッ!? そんなバカなっ! 大体、あの人たちはどう見たって外国人…」
「私、十八でフランス人と結婚して十九のときに娘を産んだのよ。…失礼」
 その場に茫然と固まる男にびしりと叩きつけ、さっとフランソワーズたちの方に駆け寄ってきた藤蔭医師は、いかにもわざとらしい大声で。
「まぁイワン、すっかり大きくなったわねぇ。どれどれ、『おばーちゃん』にもっとよくお顔を見せてごらんなさい」
 もともと藤蔭医師によくなついている上、この状況をいち早く察したらしいイワンが、たちまち歓声を上げてもみじの手を伸ばす。一方のフランソワーズはすっかりあっけに取られて声も出ない。
(ふらんそわーずモ話ヲ合ワセテ。デナキャ、疑ワレチャウヨ!)
 すっかり調子に乗ったイワンのテレパシーと藤蔭医師の目配せに、それでもようやく。
「あ…あ、『お母さん』、遅くなってごめんなさい。この子がちょっとぐずってしまって…」
 懸命にそれらしい台詞をつむぎ出したときには、男の姿はもう消えていた。

「あー、二人のおかげで助かったわぁ。…ったく、このトシになってナンパされるとは思ってもみなかったわよ。いくらこっちの年齢言ってもはなから聞いちゃいないんだもの。最近の若い子は他人の話を聞かないって言うけど、あれほどひどいとは思わなかったわ。…困ったもんだ」
 店に入り、ぼやきつつもどこかほっとしたように大きな息をついた藤蔭医師に、フランソワーズも苦笑する。
「私たちも本当にびっくりしちゃいました。それにしても確かに…かなり若い人でしたね。学生かしら?」
「自分じゃ大学院生だって言ってたけど、ありゃ絶対サバ読んでるね。せいぜい学部の二年か三年、ヘタすりゃ一年坊主じゃないの?」
(キット、必死デ自分ヲ大人ニ見セヨウトシテタンダネ)
 そこでひときわ大きくなる笑い声。しかしこの思いがけない、そのくせ些細な笑い話(?)のおかげで。
「ところでフランソワーズ、相談って何? 何か、困ったことでもあるの?」
 皆がようやく落ち着いて注文も済ませたあと、真面目な表情でこちらに向き直った藤蔭医師に穏やかなアルトで訊ねられたフランソワーズは、肝心の「相談」をどうしても口に出すことができなくなってしまっていたのである。
「フランソワーズ?」
 再度問いかけても返事はない。いつの間にか伏せられてしまった水色の瞳、うつむいた白い頬にこぼれかかる金色の髪に、藤蔭医師は一瞬首をかしげたが、それ以上目の前の少女を問い詰めるような真似はしなかった。
「…それじゃしばらく、イワンくんとお話ししましょうか。さ、こちらにいらっしゃい。今日は久しぶりに会えたんだし、『おばーちゃん』とたくさん遊びましょうね〜♪」
 わざと明るくそう言えば、嬉しげな赤ん坊の笑い声がこれまた少々大きめに響く。
(ヤダナァ、藤蔭先生。モウ、ソンナ『オ母サンゴッコ』ハシナクテイインデショ?)
 本来なら、相性が悪いはずの二人の能力。だが、長い時間をかけて研究したおかげで、今では何とかテレパシーによる意思疎通も可能になっていた。フランソワーズの隣に置かれたクーファンから抱き上げられ、藤蔭医師の膝に場所を移したイワンはもう、すっかりご機嫌である。
 タイミングのいいことに、そのときちょうど、注文した品々―フランソワーズが頼んだチョコパフェと、藤蔭医師が頼んだコーヒーゼリーがやってきた。
「あ、ほらイワンくん、おいしいもの来たわよぉ♪ 生クリーム、ほんの少し食べてみる?」
 本来、藤蔭医師はあまり甘いものが好きではない。大抵の場合、こんなふうに喫茶店に入っても注文するのはコーヒーか紅茶―それも、砂糖・クリーム一切抜きのブラック、あるいはストレートだけだ。なのに今回コーヒーゼリーを頼んだのは、ひとえにその上に乗っている生クリームがイワンの大好物だからである。
「はい、お口開けて。ほぅら、ぱっくん。おいしい?」
 早速スプーンにほんの少しのクリームをすくって小さな口に入れてやれば、ほんのり甘いその味に、イワンの表情がとろけそうにほころぶ。
(ウン、スゴクオイシイヨ! ネェ先生、モット!)
「はいはい。それじゃもう一度、お口開けてね。さぁどうぞ」
 そんなやり取りを何度か繰り返しているうちに、ゼリーの上の生クリームは全てイワンの腹の中へと納まってしまった。
「あら…なくなっちゃった。それじゃイワンくん、今日はもうおしまい。また今度ね」
(エエ〜、先生、ソンナノナイヨ。モウ少シ…ネェ、モウ少シダケチョウダイ)
「だーめ。これ以上食べたらお腹壊すわよ」
(ソンナコト言ワナイデ…アトホンノ一口!)
「い・け・ま・せ・ん!」
 瞬時、睨み合ったイワンと藤蔭医師。だが、やがてどちらからともなくぷっと噴き出して。
(アーア。ヤッパリ藤蔭先生ハ厳シイヤ。ボク、精一杯可愛クオネダリシタツモリナンダケドナ)
「当然。だって私は医者なんだもの。いくら大好物でも、小さな赤ちゃんにむやみと食べさせ過ぎるわけにはいかないわ」
 きっぱりそう言われてちょっぴり頬をふくらませたイワン。と、その視線がさりげなくフランソワーズに向けられている。それに気づいた藤蔭医師もそれとなく、同じ方へと視線を走らせてみれば。
 先ほどから一言も発しないまま、彼女はただ黙々とチョコパフェを口に運んでいた。だがそのスプーンの動きはどこか鈍く、美しく盛りつけられたパフェはいまだほとんど、運ばれてきたときそのままの原形を保っている。
 すでに、彼女の様子がおかしいことには気づいていた藤蔭医師であったが、何分事情がさっぱりわからないままではどうしようもない。
(さて、どうしたものかしら?)
 さすがの精神科医も、肩をすくめて小さくため息をついたとき。
(アア、何ダカトッテモ嬉シイナ。サッキノ『オ母サンゴッコ』ジャナイケド、コウシテイルトマルデ、本当ノオ母サント一緒ニイルヨウナ気ガスル。ネェ、ふらんそわーず。今日ハ内緒ニシチャッタケド、今度ハじょーモ誘ッテミヨウヨ。じょーニモ是非、コンナ気分ヲ味ワッテホシイ…ボクハソウ思ウンダケド、ふらんそわーずハドウ?)
 突然響いてきたイワンのテレパシー、それと同時に。

 フランソワーズの手から、銀色のスプーンが音を立てて落ちた。

「フランソワーズ?」
「あ…すみません、先生…。私…」
 明らかにうろたえた様子のフランソワーズに、藤蔭医師の―ほんの少し―厳しい視線が飛ぶ。
「…もしかして、貴女が動揺したのは今の…イワンくんのテレパシーの所為? だとしたら貴女の相談というのは島村クンのこと…?」
 できるだけ慎重に、言葉を選んで。できるだけ優しく問いかけたはずなのに、金髪の少女の表情はそのまま、くしゃくしゃに歪んでいった。

「すみません…。すみません、藤蔭先生。私…どうしても先生にお願いしたくて…もうすぐ、ジョーの誕生日だから…だけど今年は、先生のご都合が悪いって…伺ったから…」
「ああ…そうね。そうだったわね…。ごめんなさい。私もすごく残念だけど、どうしようもないのよ…ごめんなさいね、フランソワーズ…」
 そう。今年もまた、すぐそこにまで迫っているジョーの誕生日。例年通り、今回も盛大なパーティーを企画していた仲間たちは、藤蔭医師にもかなり早い時期から連絡を入れておいたのだった。だが、当日一ヶ月前になって突然決まった九州学会への出張。最後の最後まで日程調整をしようと頑張ったもののどうしても時間を作ることができなかった藤蔭医師は、結局今年の誕生日パーティーを欠席せざるを得なくなってしまったのだった。
「…ううん、それはいいんです。お仕事ですもの。でも、パーティーがだめならせめて…せめて…」
「せめて? なあに?」
 穏やかに問いかけても、すぐに返事は返ってこない。だが、藤蔭医師は辛抱強く待ち続ける。もちろんそれは、いまだ彼女の膝の上、しっかりと抱かれているイワンも同じことであった。
「できることなら…できれ…ば…」
 ようやく聞こえてきたフランソワーズの声は「蚊が鳴くような」というよりももっと、小さくて。
 さすがの藤蔭医師とイワンも、当惑しきったように顔を見合わせた。

 実はフランソワーズ、パーティー出席が無理ならせめてその前、いや、そのあとでも全然構わないのだが―今まさに自分たちが体験しているような「お母さんとのひと時」をジョーに過ごさせてやれないかと、藤蔭医師に頼み込むつもりだったのだ。
 初めて顔を合わせたそのときから、自分たちのために骨身を削り、懸命にその心を守ってくれた藤蔭医師。そんな彼女をフランソワーズやイワンが、いや、誰よりもジョーが姉―いや、母のように深く慕っているのは00ナンバー全員がよく知っている。
 だったら―たとえ誕生日パーティーの出欠なんてどうでも―そんなひとと少しの間でも二人きりで、誰にも邪魔されずに過ごせたら、ジョーがどんなに喜ぶだろうかと。
 …そう。フランソワーズはジョーの誕生日に、「お母さん」をプレゼントしてやりたかったのである。
 だが、彼女は見てしまった。自分たち―自分やジョーとほとんど年齢の変わらぬ若者が、藤蔭医師にしつこくつきまとう光景を。自分たちと同じ年代の少年、あるいは青年たちの目にさえ、美しくて魅力的な恋の相手として映る彼女を―知ってしまった。

「…だから私…どうしても…言い出せなくて…。先生にこんなお願いをするなんて、どんなに失礼なことか気づかなかった自分が…恥ずかしくて…」
 相変わらずうつむいたまま、消え入りそうな声でやっとそこまで言ったときには、フランソワーズの頬は火を噴かんばかりに熱く、真っ赤になっていた。
 しかし一方の藤蔭医師はまるで気にするふうもなく、けろりとしている。
「いやぁねぇ。失礼なんてことあるわけないじゃないの。実際私は、貴女たちくらいの子供がいても全然おかしくない年齢なんだから」
「…でも、さっきの人はきっと、先生のことをすごく素敵だって思ったからこそしつこくつきまとったに違いないんです。なのに、そんな人と同じくらいの年齢の…ジョーの『お母さん』になってほしいだなんて、やっぱり失礼…」
「ちょっと待ってよフランソワーズ。それじゃ、『お母さん』は素敵じゃないっていうの? それこそ、世の中全てのお母さんに対してものすごく失礼よ」
「す、すみません…」
 言えば言うほど、余計小さく縮こまってしまうフランソワーズ。少々慌てた藤蔭医師は、すぐさま―ごく何でもないふうに―言葉を添える。
「大丈夫。貴女がそんな意味で言ったんじゃないってことはよくわかってるから。むしろ、こちらの言い方こそよくなかったわ。ごめんなさいね」
 そう言われたフランソワーズはようやく顔を上げ、藤蔭医師もほっとしたように大きくうなづいた。
「島村クンのお母さん役なら、私はいつだって喜んでやらせてもらうわ。…でもねぇ」
 そこでふと、困ったように首をかしげて。
「彼、もう十八でしょう。たとえ二人っきりになったとしても、それくらいの年齢の息子が、果たして素直に『お母さん』に甘えられるかしら? 私もどちらかというと女ばかりの家族・親戚の中で暮らしているから詳しくはわからないけど、彼くらいの年頃になるとほとんどの男の子は照れ臭がって、あんまりお母さんにはつき合ってくれなくなっちゃうって話をよく聞くのよね。…まぁ、確かに彼の場合、ごく普通に育ってきたそのへんの男の子とはちょっと事情が違っているけれど」
 両親について何一つ―顔も名前も、彼らが自分を愛していたかさえ―知らぬままに育ち、深い孤独に冷たく凍てついていたジョーの心。厚く固い、精神の氷河の中に封じ込まれたその自我をすくい上げるための苦労がどれほど大変なものだったかは、当の藤蔭医師本人が一番よく覚えている。だが―。
「たとえどんな事情があろうと、彼はもう幼い子供じゃないし…それに島村クンって、ただでさえ自分の気持ちを押さえ込んじゃうところがあるからねぇ。特に相手が女性だと、はっきり言ってもうどうしようもないレベルよ、アレは。だから貴女との仲も一向に進展しなくて、こっちはもうじれったいやら情けないやら…って、ごめんなさい。こんなこと、部外者の私が貴女に言うのは失礼よね」
「あ、いえっ! 失礼なんて、そんな…」
 ぶんぶんと大きく首を横に振りつつも、思いがけない方向に転がった話にすっかり焦ったフランソワーズの顔が、先ほどとは全く別の理由で鮮やかな紅に染まる。
「…それじゃこれでおあいこにして、お互い謝ったり気を遣い合うのはもうやめましょう。ね、フランソワーズ」
 あらためてにっこりと微笑みかけられて、今度こそフランソワーズにいつもの表情が戻ってきた。しかしその後も、例の「相談」については、フランソワーズも藤蔭医師も頭を抱えるばっかりで。
(ネェ、藤蔭先生…ソレニ、ふらんそわーず)
 そこに突然響いてきたのは、先ほどからすっかりだんまりを決めこんでいたイワンのテレパシー。
(アノネ、一応『男』ノボクカラ言ワセテモラエバ、ドンナニ照レ臭クテモヤッパリ、好キナ人―ソレガ『オ母サン』デモ『恋人』デモ―ト一緒ニイラレルノハ嬉シイト思ウケドナ。ソレニ、タトエ素直ニ甘エラレル年齢ヲ過ギチャッテモ、男ノ子ニトッテノ『オ母サン』ッテイウノハイツマデモ特別ナ存在ナンダヨ…)
「イワンくん…」
「イワン…」
 突然の新たな主張に、ぽかんとして言葉を失った女性陣二人。しかしやがて、藤蔭医師が何かを決心したようにきっぱりとうなづいた。
「うん、さすがねイワンくん。男性心理の問題は、やはり男性のアドバイスに従うのが一番だわ。フランソワーズ、そのお願い、引き受けましょう」
「本当ですか!?」
 たちまち、フランソワーズの顔にも満面の笑みが花開く。
 と、そこで藤蔭医師はちょっぴり悪戯っぽい表情になって。

「ただそのかわり、貴女にも私のお願いを一つ聞いてほしいの。いいかしら?」
 


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