聖母(マドンナ)たちの謀略 中


 約束の時間より、三十分も早く着いてしまった。ジョーは小さなため息をついて、腕時計に視線を落とす。
(もしもし、島村クン? 藤蔭です。…実は、パーティー欠席のお詫びに、貴方へのプレゼントをちょっと早めに渡しておきたいの。前日で悪いんだけど、十五日…時間空いてるかしら?)
 電話をもらって一も二もなく承知したのはちょうど一週間前。あのときはもう、ただ嬉しくて嬉しくて…それだけだったのだけれど。
 考えてみれば藤蔭医師と二人きりで出かけるなど初めてのこと、一体どんな顔をして彼女の「お供」を務めればよいのだろう?
 もっとも、今回の目的はジョーへのプレゼントなのだから、主役はあくまでも彼自身、決して「お供」などではない。なのにそんな単純明快な事実にさえまるで気づかず、ただただおろおろ、そわそわとしているうちにいつの間にかやってきてしまった約束の日。どうしていいのかわからぬまま―何故か今日は彼以上に気合の入っていたフランソワーズに半ば叩き出されるように家を出て、ようやくここまでたどり着いたのだが。
 よりにもよって、待ち合わせ場所は銀座。東京でも一番古い繁華街の一つ、伝統と格式、品と粋とに彩られた街。正直、ジョーにとってのこの街は「華やかだけれどもどこか敷居の高い、自分なんか到底受け入れてくれないであろう『選ばれた者の場所』」以外の何ものでもなかったのだ。
 それでも藤蔭医師の意向ならば仕方がないと、精一杯の正装―ブレザーにネクタイまで身につけてはきたが、やはり場違いなような気がするのはどうしようもない。できることなら今すぐ逃げ出したいのを我慢して、そのくせかすかなときめきを抱きつつ待ち続けた三十分。
「まぁ島村クン、先に来てたの!? お待たせして…いいえ、パーティー前日の忙しいときに呼び出しちゃってごめんなさいね」
 背後から響いた声に、そんな複雑な時間が突然終わる。
「あ…いえ、そんなことないです。むしろ、僕の方こそありがとうございます」
 しどろもどろに応えつつつつ振り向いたジョーの目が、大きく見開かれた。何故なら…。
「いいえ、こちらこそ。来てくれて本当にありがとう。嬉しいわ」
 華やかな笑みを浮かべつつ現れた藤蔭医師は、これまで見たこともない―和服姿だったからだ。
 紫がかった淡い藍の地色に、更紗ふうの模様を斜め縞にあしらった小紋、わずかに青緑の混じった銀地の上に、金糸・銀糸で流れる水の模様を縫い取った洒落帯。帯締の白がいかにも涼しげ、そして最後に帯揚げの金茶が唯一のアクセントカラーとして効いている―もっとも、そんな細かいところまでジョーにわかるわけもなく、ただいつもの彼女とはがらりと違う雰囲気にあっけに取られただけ、と言った方が正しい。
「…? どうしたの、ぽかんとして。あ、もしかして着物のせい? 確かに最近は、みんなほとんど着なくなっちゃったものね。私も人のことは言えないけど、今日は銀座にくることだし、久しぶりに張り切っちゃった…なんてことはどうでもいいわ。さ、それじゃ早速行きましょう」
 言いつつ軽く方向を指し示し、そのままさっさと歩き出すところはまったくいつもどおりだ。だが、その一挙手一投足ににじみ出るのは、普段見慣れている颯爽とした若々しさではなく、しっとりと落ち着いた大人の女性の風格。ただでさえ緊張していたところにもってきて、初っ端からこんな、彼女の「もう一つの顔」を見せつけられたジョーはいっそうどぎまぎしてしまい、操り人形のようなぎこちない動きでただただそのあとをついて行くことしかできない。
 そして、およそ十分も歩いただろうか。
「さ、ここよ。入って」
 藤蔭医師が足を止めたのは、とあるテーラードブティックの前。それもかなり古めかしい、威風堂々とした建物だ。きっと、目の玉が飛び出るほど高い店に違いない。
「え…本当に…? 入るんですか? こんな…すごいお店に…」
「当たり前よ。貴方だってそろそろ立派な大人、きちんとしたスーツの一着くらい持っていなくてどうするの。さ、そんなところで立ち止まってないでさっさと入る!」
 その場に立ちすくんでしまった背中を軽くどやしつけられ、ジョーは半ば突き飛ばされるようにして、店の中へと一歩踏み込んだのであった。
「いらっしゃいませ」
 店の内部は、外観以上にすごかった。重厚かつ格調高い、さながらホテルのロビーを思わせる店内のあちこちに、素人目にも明らかな高級品とわかる布地がさりげなく、しかも視覚効果を存分に計算した演出のもとに並べられている。やや奥まったところに置いてある応接セットは見事なアンティーク、丁寧に頭を下げて迎えてくれた店員も、きちんとしたスーツを着こなした完璧な紳士だ。
 そんな店員に、藤蔭医師はこれっぽっちも臆することなく―。
「今日はこの子のスーツを作っていただきたくて参りました。初めての一着ですし、流行りのものよりむしろ伝統的な―紳士服の基本になるようなものをお願いしたいのですが」
「かしこまりました、奥様。フルオーダーとセミオーダー、どちらでお仕立致しましょうか」
「フルオーダーでお願い致します」
「えええええぇぇっ!」
 ついつい上げてしまった素っ頓狂な悲鳴に、軽く栗色の頭を小突かれる。
「そんな、いちいち驚いて大きな声を上げないの! …すみません。この子はまだこういったお店に慣れておりませんもので」
 だが、店員は小さく首を振ってゆったりと微笑み返しただけだった。
「いえ、お若い方にはよくあることでございます。どうぞお気になさいませんよう。…それではまず、生地とデザインをお選びいただけますか。ただ今見本帳をお持ち致しますので、どうぞそちらでお待ち下さい」
 指し示された応接セットに藤蔭医師と並んで腰を下ろしただけで、ジョーはもうかちんこちんに固まってしまっていた。やがて目の前に広げられた生地見本、そしてデザインカタログを目にしたところで、何をどう選んでいいのやらさっぱりわかるはずもない。
 結果、全ては藤蔭医師と店員とで相談するしかなかったが―しばらくのちには無事、生地とデザインが決定された。かなり濃い目のブルーグレイのウールを使った、シンプルかつオーソドックスなシングルスーツ。
「…ああ、これならどんな場所にでも着ていけそうね。いずれは式服も作ってやらなくてはならないだろうけれど、当面の間はこれ一着で充分でしょう」
「はい、それはもう。こちらでしたら冠婚葬祭、どんなにあらたまった席でお召しになっても決して恥ずかしくない品かと存じます。…では採寸の準備をさせていただきますので、恐れ入りますが今一度、こちらでしばらくお待ち下さいませ」
 恭しく一礼して店員が席を外すやいなや、ジョーは藤蔭医師にすがりついた。
「せ…っ…先生っ!! あの…っ。あの、いくら何でもこれ、すごすぎます…っ! いえ、先生からのプレゼントなら僕は…僕はもちろん、それだけで嬉しくてたまらないけれど…だけどこんな店のスーツ…それもフルオーダーなんて、とてもじゃないけどいただくわけにはいきませんっ」
 だがそんな悲鳴にも似た訴えは、ちらりとこちらを見返した黒曜石の一瞥にあっさりと却下された。
「あーもう、さっきからガタガタうるさい、青少年っ。…あのね、人の好意は素直に受けるものよ。贈り主にとっても、それが一番嬉しいことなんだから」
「で…っ、でも…」
 なおも食い下がるジョーに向けられた漆黒の瞳、それが次の一瞬ふと優しくなる。
「それにね、これは私だけからじゃないの。ギルモア先生、コズミ先生…それにグレートさんと張々湖さん、みんながお金を出し合って貴方にプレゼントする一着なのよ。言わば貴方の『お父さんたち』からの贈り物。…私はそこに、『お母さんもどき』として参加させてもらっただけ。私に気を遣うヒマがあったら他の『お父さんたち』にきっちりお礼を言いなさい。…わかったわね」
「先生…」
 意外な台詞に返す言葉を失ってしまったジョーの目の前、何故かそのまま藤蔭医師はすっくと立ち上がって。
「…あ、言い忘れていたけどもう一人の別働隊―石原先生がね、このスーツに合わせたタイピンとカフスボタンを選んでくれる手筈になっているの。生地とデザインが決まったらすぐに教えてほしいって頼まれてたから、ちょっと連絡入れてくるわ。すぐに戻ってくるから、それまではお店の人の指示に従うのよ、いいわね!」
 言うだけ言って無情にも席を離れ、早足に店の外へ出て行かれてしまっては、取り残された方はもう、泣きそうな瞳でその後姿を見送るだけである。
「…大変お待たせ致しました。ではこれから採寸させていただきますので、どうぞこちらへ」
 先ほどの店員が戻ってきて再度恭しく一礼したとき、ジョーの身体はまたしてもがちがちに固まってしまっていた。

 採寸をしてくれたのは、もう一人の―ほとんどジョーと同年代の若い店員であった。上着こそ着ていないが、こちらも上質のシャツとスラックスにきっちりとネクタイを締めている。
「胸周りと袖丈、それから着丈…次にズボンの丈を計らせていただきますので少々、失礼致します」
 メジャー片手にてきぱきと作業を進めていた店員が、ひょいとその場にかがみこむ。一方、ジョーはひたすら彼の言葉に従うばかりの、完璧な「生きたマネキン」状態だ。
 …と、かがみこんでいた店員の顔がふと上がった。
「それにしても…大変不躾ながら、本当に綺麗なお母様でいらっしゃいますね。羨ましい限りですよ」
 瞬間、ジョーの心臓がどきりと鳴る。
(「お母様」…? あ…そうか。この人、藤蔭先生と僕が親子だと…)
 いつもなら、すぐに首を振って本当のことを告げていたはず。どんなに親しく、近しい相手でも「親ではない」と口にすることに―他人にではない、自分に言い聞かせることに―慣れていたはず。
 だが今日は…。今、このときだけは…。

(言わば貴方の「お父さんたち」からの贈り物)
(私はそこに、「お母さんもどき」として参加させてもらっただけ)
(「お母さんもどき」)

(…お母さん)

「あ…はい、ありがとうございます。そう言ってもらえれば、『母』もきっと…喜びます」
 自分でも気づかぬうちにジョーはすらすらとそう答え、言い終わったあとで自分の頬がほんのりと熱くなるのを感じた。

「では一週間後に仮縫い、お仕立て上がりは三週間後ということで」
「わかりました。仮縫いのときにはこの子を一人でよこすかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します」
 そんなやり取りを最後に二人は店を出た。
「さ、これが注文書の控え。仮縫いのときに必要だから絶対に失くすんじゃないわよ!」
 手渡された紙切れを、ジョーがしっかりとしまいこむのを見届けた藤蔭医師が、満足げにうなづく。そのあとは文字通りの「銀ブラ」、目抜き通りから裏道に至るまであちこち歩き回り、時折、目についた店に入ってみたりもして。
 藤蔭医師が足を止め、入っていく店はどれもこれも格式のある老舗ばかりであった。しかも驚いたことに、一歩店内に入れば十中八九、店員たちが「藤蔭のお嬢様!」と声を上げ、懐かしそうに駆け寄ってくる。
「うちの祖父母の時代には、ちょっと気の利いたものを手に入れようとしたら銀座に来るしかなかったのよ。だからそのあとも…両親や叔母たち、私や従妹たちも何となく…ね。で、気がついたら親子三代のおつき合い、なんてお店があちこちにできちゃった」
 そう言って藤蔭医師が笑ったのは、これまたかなりの老舗であろう料亭。昔ふうの黒塀がいかにもそれらしい粋な店だが、その前の道路を走るのは今や、自動車だのバイクだの、あるいは自転車だのばかりである。
「私が小学生の頃くらいまでは、まだそのへんの横丁を芸者さん乗せた人力車が走ってたりしたんだけどね。綺麗だったなぁ。…できればそんな風景も見せてあげたかったわ」
 料理とともに運ばれてきた酒に、ほんのり頬を色づかせた藤蔭医師が語る取りとめもない昔話。正直、ジョーにとってはそんな、子供の頃から銀座の老舗に出入りするような「お嬢様」の生活などまったく想像できなかったが―。
 何故か、今はそんな別世界の話を聞いているのが楽しかった。もしも本当の母親とずっと一緒に暮らしていたとしたら、時々こんな思い出話をしてくれたかもしれない、という気がした。
 そのうちに、ふと心の中に湧いてきた衝動。
(「お母さん」と呼んでみたい―)
 刹那、自分で自分の心にどきりとする。
(ば…莫迦だな。僕は一体何を考えているんだろう。いくら優しくしてくれるとはいえ、何の血のつながりもない、それも独身の女性に向かって―)
 そんなことをやらかしたら最後、きっとこっぴどく叱られるだろう。もしかしたらそれっきり、口も聞いてもらえなくなるかもしれない。
 だが、胸の中の思いはどうしても消えてくれず、気がつけば何とかチャンスを見つけようと、そればかりに必死になっている自分がいた。
 そんなこととは露知らず、藤蔭医師はなおも話し続ける。
「貴方、最初のうちはずいぶん緊張してたみたいだけど、慣れてみれば銀座ってのも結構面白い街よ。もっと気軽にどんどん遊びに来ればいいわ」
 この言葉に、ジョーが素直にうなづいたのは言うまでもない。だが、それと同時に膝の上、拳をぎゅっと握り締めて―。
「…はい、わかりました。………お母さん」
 最後の最後、フランソワーズでさえ聞き取れないほどの小さな声でつけ加えた一言は、生身の藤蔭医師の耳には絶対に聞こえるはずがなかった。それでも、握った手の中にいつしかじっとりとにじみ出してきた汗。縮み上がる心臓。
(もし…もし、藤蔭先生に聞こえてしまったら…)
 だが、藤蔭医師は何事もなかったように大きくうなづき返してくれただけで、そして―。

「ええ、そうなさい、…ジョー」

 ぎょっとしてジョーは顔を上げる。藤蔭医師も、はっとしたように自分の口元を押さえた。
「あら…やだ私、どうして貴方の名前を呼び捨てになんて…。酔っ払っちゃったのかな。ごめんなさいね、島村クン」
「い…いえっ! そんなことありませんっ! 絶対に…ありません」
 激しく首を振りながら、ぎゅっと瞑ったまぶたがみるみるうちに熱くなる。やがてその奥からもっと熱いものがにじみだしてきて―ジョーは、それを必死に我慢するだけで精一杯だった。
 


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