聖母(マドンナ)たちの謀略 下


 最初のうちこそ緊張と不安で一杯だったものの、気がつけばふんわりと温かいもので体中が満たされていた、そんな不思議で―幸福な一日。
 だが、そんな時間にも必ず終わりはやってくる。と…少なくともジョーはそう思っていたのだけれど。
「先生、今日は本当にどうもありがとうございました。明日からご出張だというのにこんな遅くまで…」
 深々と頭を下げた瞬間、漆黒の瞳がきょとんと見開かれた。
「え…? 何言ってんのよ島村クン。これで終わりなんて誰が言った? 最後にもう一軒、寄るところが残ってるんだから」
「えっ…? だって先生、もう夜の十一時…」
「十一時なんてまだ宵の口! さぁ、行くわよ!」
 高らかに宣言したと同時にまたしてもくるりと背を向け、すたすた歩き出す藤蔭医師。慌てたジョーは、ただあたふたと後を追うしかない。
(うわ…どうしよう。もしかして先生、酔っ払っちゃったのかな。…今日はそれほど飲んでなかったはずなんだけど…)
 見ればその足取りもしっかりしているし、到底酔っているようには思えない。それでもジョーは、万が一彼女が転びでもしたら大変だとできる限りその近くに寄り添い、しっかりと守るようにして、夜の銀座を歩き続けた。
 大通りから脇道に入れば、色とりどりのバーやクラブの看板やネオンがきらめき、何とも言えない妖しい雰囲気を醸し出している。このようなところには普段はほとんど足を踏み入れたことがない少年の胸の中に、再びかすかな緊張と不安が蘇ってきた。
 と―。
「はい、ここが今日の終点」
 不意に立ち止まった和服の帯に、危うくぶつかりそうになってたたらを踏む。
「ここ…ですか?」
 それは、地下へと続く一軒のバーの入り口。店名入りのネオン看板が置いてある以外、何の装飾も目印もないそこは、他に比べてかなりこじんまりとした、地味な雰囲気の店に思えた。
(まぁ…こんな感じのところなら…入っても大丈夫かな)
 こっそり安堵の息をつくジョー。だが、藤蔭医師はいつまでも店の前に立ったまま、何かを探すようにきょろきょろと周囲を見回している。
「先生…?」
 不審に思い、ついつい声をかけてしまったとき。
「あ、来た来た! いらっしゃい! こっちよ、早く」
 突然声を上げた藤蔭医師が大きく手を振り始めたのにつられて、ひょいとそちらを振り返ってみれば。
「…!!」
「やぁ、お待たせしてしまいましたかな、申し訳ない。何しろひどい渋滞で…夜の銀座は、車で来るところではありませんな、全く」

 何と、そこに立っていたのはかっちりとしたスーツにネクタイで正装したグレートと―彼に軽く肩を抱かれ、どこかどぎまぎした様子で立ちすくんでいる―フランソワーズだった。

「さぁレディ。お言いつけどおり、プリンセスをエスコートして参りましたぞ」
「ありがとうございます、グレートさん。お手数をおかけ致しました」
「とんでもない。騎士グレート、お美しいレディの頼みとあらばいかなることでも喜んでお引き受け致しますゆえ」
 言いつつ、グレートがフランソワーズの背中をそっと押すと同時に、藤蔭医師がジョーの手首をつかんでぐい、と引っ張った。それぞれ前へと押し出され、至近距離で向かい合う形となった二人は、ただただ茫然としているばかりである。
「フランソワーズ…どうして君がここに…?」
「私は…藤蔭先生との約束で…ジョーを迎えに…。そうしたらグレートが、もう遅くて危ないからって…一緒に来てくれて…」

 あの日。フランソワーズの頼みを聞き入れた藤蔭医師の最後の台詞。
(貴女にも私のお願いを一つ聞いてほしいの)
 その「お願い」というのが、「夜十一時に、車でジョーを迎えに来てほしい」というものだったのだ。
(誕生日の前祝いだもの、夕食のときにちょっと乾杯でもしたいじゃない。だけど万が一島村クンが酔っ払っちゃったら私一人じゃとても連れて帰れないし…そうでなくても車で迎えに来てもらえれば、彼も帰りが楽だと思うんだけど)
 あのときは、ごくごく当然かつ行き届いた心配りだと思って何の疑いもなくうなづいたフランソワーズであったが。

 ジョーと二人、おずおずと「大人たち」の方を見てみれば、藤蔭医師もグレートも、何やら意味ありげな笑みを浮かべている。
「このお店ねぇ、通常の営業時間は午前0時までなんだけど、とある条件を満たしたカップルに限り、特別サービスをしてくれるの」
「とある条件…?」
「特別サービス…?」
 首をかしげた若者たちに、いっそう面白げな表情になった大人たちがそっと目配せを交わす。
「条件すなわち、二人のうちどちらかが誕生日を翌日に控えたカップルであること。そして、一週間前までにしっかり予約を入れてあること。…以上でしたな、レディ?」
 いかにも面白くてたまらぬといった体のグレートに、藤蔭医師が優雅にうなづく。
「そのとおりよ、グレートさん。でもって、その『特別サービス』というのはね…」
 そこで再び藤蔭医師とグレートが、にんまりとした視線を見交わした。
「予約が入った日に限り、営業時間は午後十一時四十五分まで。他のお客様を少々早めに帰したあとは、そのものずばり二人だけの貸し切り状態。そして、時計の針が午前0時を打ったと同時に―」
「店の照明を落とし、キャンドルだけが灯るムードたっぷりの空間の中、誕生日の到来を祝って華やかにシャンパンの栓が飛ぶ。BGMはピアノの生演奏、それも曲目はリクエストし放題といった寸法だ。中々洒落た演出だとは思わないかね、若者たちよ」
「実は、以前からこの店のことは知ってたものでね。前もって、島村クンの名前で予約を入れておいたの」
 そこで今度こそ、おかしげに声を立てて笑い出した大人組。一方の若者組は、ただただ目を白黒させているばかりである。
 そこへ一歩踏み出した藤蔭医師が、そっとジョーの耳元に口を寄せた。
(あのね、島村クン。今の貴方が、誕生日に一番早く「おめでとう」って言ってもらうべき相手は親じゃなくて、彼女―。フランソワーズよ)
 言うと同時に真っ赤になった少年から、さっと離れた妖艶な―和服の女。
「た・だ・し。ここのサービスは午前0時四十五分までの一時間きっかりだからね。時間がきたら寄り道しないでまっすぐおうちへ帰ること。帰りのタクシーも呼んでくれるようお店に頼んでおいたから、くれぐれもおかしな気起こすんじゃないわよ!」
 びしりと言い渡したところへ絶妙のタイミングでさっとさし伸ばされた手。
「では、こちらのレディはそれがしが責任持ってお送り申そう。さ、どうぞお手を。…女王陛下」
 鷹揚にうなづき、静かにグレートの手に自分のそれを重ねた藤蔭医師の姿は、まさに「女王」と呼ぶにふさわしい威厳と気品に満ちていた。
 あっけにとられて言葉も出ない幼いカップルを残し、藤蔭医師とグレートは歩き出す。最後の最後、そうっと後ろを振り返ってみれば、深々とこちらに向かって一礼した少年少女が、意を決したように例の店に続く階段を下りていくのが―見えた。





「…それにしてもレディ、本日はジョーのためにたいそう気を遣って下さって本当にありがとうございました。その和服姿はいつにもましてお美しゅうございますぞ。目がくらみそうだ」
 ハンドルを握るグレートにそう言われ、助手席の藤蔭医師はくすりと笑った。
「今日の私の役目はあくまでも『お母さん』でしたからね。洋服より和服の方が年相応に、それらしく見えると思ったんですよ。だけど貴方方には悪いことをしてしまったかしら。私が余計なことを思いついたせいで、せっかくのプレゼントをパーティーの席上で披露することができなくなってしまったわ」
「とんでもない! 我々とて、パーティー当日に完成品を渡すのは無理だと思っていましたからな。フルオーダーのスーツとくれば注文から仕立て上がりまでどう頑張っても二、三週間はかかるし、注文時には必ずジョーを連れて行かなくてはならない。そんなに早くからプレゼントの中身を教えてしまうなど興醒めだ。パーティー当日の面白さが半減してしまうというものですぞ」
「そう言っていただけると…」
 いくぶんほっとしたような藤蔭医師に、グレートは前方を見たまま小さくうなづき返す。そして…。
「それに今日彼を連れ出してくれたおかげで我々も助かりました。我が家の場合、誰かの誕生日というと若人たちがあれやこれやとサプライズを考え出すのが恒例でしてね。毎度毎度、当日の主役に気づかれぬよう準備するのにえらく神経を使うんですよ。しかし、今日ばかりは誰憚ることなくさまざまな仕掛けを施すことができましたからな」
「まぁ、それは楽しみですね。…でもそんなに皆さんが張り切っちゃったんじゃ、島村クン大丈夫かしら」
「…ま、びっくりして腰を抜かすくらいはするかもしれませんな。…ですがレディとて、最後の最後に最高のサプライズを用意されていたではありませんか」
 グレートが言うのはもちろん、あのバーの「特別サービス」のことだ。
「ああ…あれはただ、私が偶然あのお店のことを知っていたから…でも、夜遊びのお膳立てから帰りのタクシーの手配までしてやったのはちょっと過保護だったかな」
「これはまた、レディらしくない仰せだ。年若き者たちに年長者が配慮してやるのは当然のことですぞ。そして、そんなふうに世話を焼かれることを鬱陶しく思ったときが、子供にとっては自立の第一歩です。過保護もまた、『親』の大切な義務なのではありませんかな」
 そこで、信号。車を停めたグレートが、何を思ったかハンドルにあごを乗せ、かすかなため息をつく。
「ただ、あの少年少女が我々の『過保護』を鬱陶しく思ってくれるようになるのはまだまだ先、という気もしますがね」
「まぁ、グレートさんったら」
 やがて、再び動き出した車。途切れた会話。藤蔭医師は何気なく、窓の外を流れ去る街の光に視線を移す。
(でも―確かに、そうかもね…。特に、島村クンにとっては…)
 さっきの料亭での光景が、ありありと脳裏に蘇ってきた。

(…はい、わかりました。………)

 そのあとジョーがつぶやいた言葉は、もちろん彼女に届いたはずもなかった。しかし、何となく想像はつく。
(ま、あれで全てが終わったとは私も思っちゃいなかったし…)
 軽いため息とともに、記憶はさらに過去―初めて00ナンバーたち、そしてジョーと出会った冬の日へと飛ぶ。
 あのとき、彼女は孤独に凍てつく少年の心を三日間かけて解きほぐし、そこに小さな灯をともした。人間に―幼い子供にとって何よりも必要不可欠な原初の許し―母親による無条件の許容とはどのようなものかを教え、永遠に続く罪の意識にがんじがらめになっていたその心を開放してやった―はずだった。あれ以来彼は何となく変わったと―いつだったか、ギルモア博士がぽつりとそうつぶやいたのも耳にしている。
 だが所詮、それは夢と現、あるいは夢幻の過去と現実の記憶の狭間でのこと。原初の許しを得、永遠の罪から開放された安らぎはともかく、彼女の作り上げた夢―自分の高校時代の姿を写し、彼の母親代理としての役割を果たすためだけに生み出した「姫」という幻までもをジョーの心の中に残しておくことは絶対にできなかった。
 そして結局。彼女は余計なもの―平穏と安息に至るまでの過程、「姫」との思い出の全てを彼の潜在意識の奥底に封じ込めた。紺色のブレザー、絹の黒髪のあの少女はジョーの精神の奥底で静かな眠りにつき、多分彼がその一生を終えるまで目覚めることはあるまい。
 それは当初からの予定通りで、仕方のないことだった。一人の人間に、複数の過去はいらない。
 だが、もしもあの擬似記憶を彼の心に残しておくことができたなら、よりいっそうの安らぎと癒し、そして自信を与えてやれたであろうこともまた事実であった。

 姫に何度も窮地を助けられたこと。
 姫に叱られながら、さまざまな「知恵」を身につけていったこと。
 姫の腕に抱かれ、その胸の中で泣いて―ありのままの自分の想い全てを告白したこと。

 何よりも。

 彼のために若さを捨て、まさに「母」そのものの姿になってくれた姫を「母さん」と呼んだこと―。

(そんな記憶の全てを潜在意識から消してしまうのは、さすがの私にも辛かった…)
 それでも心を鬼にして。彼を無用な混乱から守るためにあえて無慈悲な処置を施したとき、藤蔭医師はひそかにある決意を固めたのであった。
(私の分身からの贈り物―たとえ幻とはいえかけがえのない思い出、永遠に忘れたくなかっただろうきらめく日々―を私は彼から奪い、永遠に葬り去った。…ならばもう一度、今度は私自身が同じものを贈ろう。誰にも奪い取られることのない、確かな現実の記憶として―)
 ただの感傷や同情だけでできることではない、それは最初から承知の上だった。ジョーにとっての姫と自分は、年齢も立場も全く違う別人格なのである。果たして彼が、姫同様に自分にも心を開いてくれるのかどうか。たとえ心を開いてくれたとしても、それまでにはどれほどの時間がかかるのか。もしかしたらそれは、彼女の生涯全ての時間を費やしても終わらない、長い長い仕事になるのかもしれなかった。

 それでもこの道を選び、命ある限りあの少年の―その仲間たちのそばで、つかず離れず―その心を支え続けようと決めたことには、これっぽっちの後悔もない。
 ただ、そのためにとてつもない時間がかかることだけは覚悟していた。

 だから。

 あのとき、ジョーの中に浮かんできた衝動に一番驚いたのは藤蔭医師だったのかもしれない。
 何の前触れもなく、突然彼から押し寄せてきた激しい「気」の流れ。もちろん彼女には、それが自分への好意、そして親近感から生まれてきたものだということはすぐにわかった。
(だけど―)
 その奔流にさらされた自分の衝撃に、彼が気づくことは決してないだろう。
(…可愛い、微笑ましいというにはあまりに狂おしく、必死な…砂漠に渇いた者がたった一滴の水を求めるような、地獄の責め苦にあえぐ亡者がたった一筋の蜘蛛の糸にすがるような…切なく、哀しく、そう…痛いくらいの「思慕」という想い…)
 どんな決意を固めていたとはいえ、そんな場面がいつ、どのようにしてやってくるのかなど、さすがの藤蔭医師にも予測不可能であった。ましてこんなにも早く、こんなにも突然ぶつけられたその想いをどう受け止めればいいのか、そのときの自分がどのような反応をしてやればいいのか、まるでわからなかったというのが正直なところである。
(でも、私の中の何かが、確かに彼の「気」に反応した。彼の想いに引き寄せられ、吸い込まれ、一体となって、そして―)
 気がつけば、酔ったふりをして彼の名前を呼んでいた。いつものように苗字ではなく、敬称もつけず―そう、母が子を呼ぶときのように。

(やれやれ。どうやら私にも母性本能のカケラくらいはあったということね)

 一人苦笑した藤蔭医師に、グレートが道を尋ねてきた。そろそろ、彼女の自宅が近くなってきたようである。

〈了〉
 


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