舞姫騒動記 3


 それからさらに二週間ほど後、いよいよフランソワーズは御法とともに安曇流家元宅へ挨拶に赴くこととなった。本音を言うと先日同様藤蔭医師にも一緒に来てほしかったのだが、「あ、ダメ。私、日舞に関しては完璧な部外者だからね。貴女のことは御法叔母さんによぉぉ〜く頼んでおいたから、覚悟を決めて潔く二人で行ってらっしゃい」と、あっさり断られてしまったのである。
(…やっぱり、藤蔭先生にとってはご迷惑だったのかしら…。いきなりあんなことをお願いして、叔母様まで巻き込んで…)
 念願かなったとはいえ、そんなことを考えるとついつい気分が落ち込んでしまう。と…。
「フランソワーズさん?」
 先を歩いていた御法がふとこちらを振り向いた。今日もまた、しっとりと着こなした和服姿が奥ゆかしい。ちなみにフランソワーズの方は、初めての挨拶ゆえ無理に着物を着ることもなかろう―というそのアドバイスに従い、濃紺のボレロ風ジャケットとフレアースカート、そして純白のブラウスという完全な洋装である。
「どうなさいました? 何だか、随分緊張していらっしゃるみたいね。でも大丈夫ですよ。家元は決してそんなに怖い方じゃありませんもの」
「は…はい! あの、でも…。あの…」
「ああ…私のことは『おばさん』と呼んで下さって構いませんよ。貴女は聖ちゃん…いえ聖の妹代わり、娘代わりなのでしょう? でしたら私にとっても姪代わり、でなければ姪の娘代わりだわ」
 穏やかなその口調にほんの少し安心したフランソワーズ、勇気をふりしぼって御法に話しかけてみる。
「あの…それじゃお言葉に甘えて…おばさま、今度のことっておばさまや藤蔭先生には大変なご迷惑だったんじゃないでしょうか。私、これまで夢中になっていたから気づきませんでしたけど、今思えば先生は初めから…あまり気乗りのしないご様子でしたし…」
 途端、御法は大きく声を上げて笑った。
「違うのよ、フランソワーズさん。それは貴女のせいじゃなくて、全部あの子自身のせい。…実はあの子ね、子供の頃、せっかく上がったお師匠さんのところをたった三か月で飛び出しちゃったことがあるの」
「ええっ!?」
 ついつい大声を上げてしまったフランソワーズとは裏腹に、御法の声にはまだ笑いの余韻が残っている。
「日本ではね、小さな子供がお稽古事を始めるのに一番いい日は六つの年の六月六日だって、昔からよく言われているんですよ。…もっとも歌舞伎や能狂言など、それを生業にしていらっしゃるお家のお子さんだともっとずっと早くに始めますけどね。まぁ、とにかく聖もその言い伝えどおり、六つの六月六日に安曇流に入門しましたの。あの子の家から家元のお稽古場までは、小さな子には少しばかり遠かろうって、家元自らすぐ近くの、幹部級のお師匠さんに頼んで下さいましてね。聖も最初のうちはおとなしくお稽古に通っていました。ところがある日…」
 言いかけた御法がまたしてもその肩と背中を大きく震わせて。
「お稽古の順番を待っているところへ、お師匠さんが飼っていらした仔猫がちょこちょこ迷い込んできたのを見つけた聖が大喜びの大はしゃぎ、あたり構わず猫ちゃんを追いかけ回してどたどたばたばた、お稽古場中をめちゃめちゃにしてしまったそうなんです。ええ、そりゃぁもちろんあとでこっぴどく叱られましたとも。ですがそのせいであの子の方も癇癪を起こしてしまい、『もうお稽古なんか絶対に嫌だ!』って泣き喚いてそれっきり…あの時は私も顔から火の出る思いで、そちらのお師匠さんや家元に平謝りに謝りましたよ。もっとも、どちらも笑って許して下さいましたけどね。特に家元などは『あちらのお師匠さんが猫好きで、稽古場にも自由に出入りさせていることを忘れていたのは私の落度だ、小さな子供が可愛らしい仔猫を見つけたら、一緒に遊びたくなって当然だ』って言って下さって…。ですがまぁそういうわけでね、今でも聖にとっては日本舞踊や安曇流は最大最凶の鬼門なの―って、要はそれだけのお話。ですから、貴女があれこれ気を遣う必要なんてこれっぽっちもないんですよ」
 言い終えた御法がそこでまたぷっと噴き出し、その物静かなたたずまいに似合わぬ―藤蔭医師そっくりの―豪快な笑い声を上げる。おかげでフランソワーズの心も随分と軽くなり、気がつけば御法とともに明るい笑い声を上げていたのだが…。

 程なく到着した家元宅は先日の藤蔭本家同様、いやそれ以上の規模かと思われる純和風の大邸宅であった。もっとも、御法によるとここは家元個人の住居であると同時にその稽古場や流派の事務所も兼ねているそうで―ならばこれくらいの広さはあって当然、別に驚くほどのことでもない。ただ、そこに漂う何とも厳粛な雰囲気にはさすがのフランソワーズも少々気圧されてしまい、忘れていたはずの緊張と不安が再び蘇ってきた。しかしここまできたからには引き返すなど到底不可能、それならば…と小さな深呼吸で無理矢理心を鎮め、先を行く御法に続いてゆっくりとその門をくぐる。
 玄関には、やはり和服姿の若い女性が迎えに出てくれていた。しかし御法の姿を認めた途端、わずかに口元をほころばせて「どうぞ」と丁寧な仕草で廊下の奥を指し示したところをみると、すでに話は全て通っているらしい。御法もまた「失礼致します」と丁寧な礼で応えたのみで、あとはフランソワーズと二人、言われたままに玄関からさらに家の奥へと歩を進める。やがて、磨き抜かれた廊下を少し歩いたとある座敷の前で足を止めた御法が静かに両膝をついた。そして、背後のフランソワーズが同じく膝をつくのを待って障子越しに声をかける。
「…ごめん下さいませ、お家元。照紫乃(てるしの)でございます」
「…お待ちしておりましたよ。お入りなさい」
 家元の前に出るとて本名ではなく名取名を名乗った御法が音もなく障子を開ければ、座敷の中には床の間を背に端座した老婦人が穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。その前にはやや大ぶりの座卓、空いている三方にはそれぞれ二枚ずつの座布団がきっちりと敷かれてある。
「いらっしゃい、照紫乃さん。こうしてゆっくりお目にかかるのは随分とお久しぶりね。…で? そちらが入門希望のお嬢さん?」
 おっとりと口を開いた安曇流家元、安曇照月(あずみ しょうげつ)は年の頃なら七十前後だろうか。小柄でふっくらとした体つき、同じく丸いその顔をにこにことほころばせている様はまるで小さな地蔵菩薩のように愛らしい。しかしぴん、と伸ばされた背筋、優しげに細められた瞳の奥に仄見える凛とした強い光は、まさに一大流派を率いる家元にふさわしい威厳に満ち溢れていた。
「はい。フランソワーズ・アルヌールさんとおっしゃいます。本日はお忙しい中お時間を割いて下さいましてどうもありがとうございました」
 部屋の中に入った御法がすぐまた障子の前に正座し、深々と頭を下げる。もちろん、フランソワーズもそれに倣った。照月が、ますますほっこりと笑み崩れる。
「まぁまぁ、そんな堅苦しいご挨拶は抜きに致しましょうよ。それよりまずはおざぶをお当てになって」
 座卓の向かい側を指し示された二人が言われるままに席に着く。そこへ、先ほど玄関で迎えてくれた女性がお茶を乗せたお盆を手に現れ、皆にお茶を出し終えてまた静かに去って行くのを見送ってから―。
「お話は全てこちらの照紫乃さんから伺いました。それにしても…」
 言いかけた照月の瞳が、先日の御法同様じっとフランソワーズを見つめた。そして、しばしの沈黙の後。
「…本当に、貴女のおっしゃるとおりね、照紫乃さん。フランソワーズさんをお預かりするに当たっては、こちらも相応の配慮をしなくてはならないでしょう」
「え…え? それは私が…外国人だからですか? それとも…バレエとかけもちで日本舞踊を習おうと…しているから…?」
 もしかして、自分は歓迎されていないのだろうか…と、泣きそうな顔になったフランソワーズ。しかし…。
「いえいえ、決してそんなことはございません。私どもの弟子の中には外国人はもちろんのこと、日本舞踊の他に貴女と同じバレエ、あるいはフラメンコや社交ダンスを習っている者も大勢おりますもの。ただ…ね、フランソワーズさん。貴女のバレエはその中でも飛び抜けている。多分、小さな頃から修練を重ねて、かなりの技量を身につけておいでなのでしょう。…違いますか?」
「いっ…いえ、とんでもない! 私なんてまだまだ未熟な半人前です」
 たちまち真っ赤になったフランソワーズの消え入りそうな声に、照月は静かに首を横に振る。
「いいえ、貴女が相当の踊り手でいらっしゃることはその立居振舞を拝見すればわかります。今そこにお座りになっているその姿勢一つをとっても…ね。たとい日本舞踊は初めてとはいえ、それだけの技を持っている方を、果たして他の初心者の皆様と同じに扱っていいものかどうか…私が申し上げたかったのはそういうことなのですよ」
 そしてつと傍らの小さな台の方に手を伸ばし、その上に置かれてあった電話の受話器を取り上げて。
「…あ、照月です。あのね、照艶(しょうえん)先生は今お手空きかしら? …ああそう、だったらちょっとこちらへおいでいただきたいんだけど…ええ…ええ。それではよろしくお願い致しますよ」
 内線通話らしい短い会話を終えた照月が、再びフランソワーズと御法の方に向き直る。
「こちらには多くの弟子が通っておりますから、私がその一人一人に直接稽古をつけることはとてもできません。そこで原則何人かのお師匠さんに『代稽古』をお願いし、折々に私が顔を出してその補佐をするという形を取っております。そしてフランソワーズさんのような全くの初心者の場合、本来ならば私の息子である照一郎(しょういちろう)が担当することになっているのですけれど…」
 そのとき、廊下の向こうからひたひたと近づいてくる足音が聞こえてきた。言葉を切った照月がちら、と障子の方を見やる。程なくその向こうに現れた淡い人影が、先程の御法やフランソワーズと同じようにゆっくりと膝をつくのが見えた。
「お呼びでしょうか、お家元。照艶でございます」
「ああ、照艶さん、お手数をおかけ致しました。どうぞ、お入り下さい」
 照月の声とともに、再び障子が音もなく開く。そこで深々と一礼していたのは、照月よりもさらに五、六歳は年上であろうと思われる老婦人であった。照月とは対照的に、ほっそりと華奢なその体は少しでも強い風が吹いたらそのままぽっきりと折れてしまいそうである。なまじこの年代の女性にしては上背がある分、その枯れ枝のような細さはいっそう際立って見えた。しかし、ぴんと伸びた背筋や瞳に宿る強い光、そして全身から漂う凛とした雰囲気はやはり只者とは思えない。老いて肉が落ちたとはいえ、長年日本舞踊で鍛え上げたその体は、おそらく鋼のごとき強靭さを秘めているのであろう。
 やがて照艶もまた、勧められるままに照月の右側―御法やフランソワーズからみれば左側―の席に着く。それを見届けた照月が、再び口を開いた。
「こちらはやはり代稽古をして下さっている安曇照艶先生です。照艶先生、こちらは照紫乃さんからご紹介のありましたフランソワーズ・アルヌールさん」
「はい、承っております。入門をご希望の方ですね」
「…今もお話していたところなのですが、フランソワーズさんには日本舞踊の経験が全くおありにならないそうです。ですから、普通なら照一郎に任せるべきなのですが、私としては―できれば貴女にお願いしたいの。この方の手ほどきをするには照艶さん、貴女が最も適任だと思うのですよ。照一郎よりも…そして、私自身よりもずっと、ね…」
 どことなく含みがあるような口調で照月が話し終えるまで、照艶はまじろぎもせずフランソワーズを見つめていた。しかし全てを聞き終えた後その視線は照月に戻り、やがて「全て承知」とでもいうような軽い会釈と同時に。
「かしこまりました、お家元。確かに、こちらのフランソワーズさんは照一郎先生ではなく、私がお預かりした方がよろしいかと存じます。…照紫乃さんも、それでよろしゅうございますか?」
 言われた御法が三つ指をつき、照月と照艶の二人に向かって深々と頭を下げる。
「はい! 照艶先生にご指導いただけるなら、私としても願ってもないお話でございます。照艶先生、何卒よろしくお願い致します。そしてお家元、本当にどうもありがとうございました」
 そしてフランソワーズも見よう見真似ながら「よろしくお願い致します!」と頭を下げ―その後さらに詳しく打ち合わせた結果、稽古を始めるとなればいろいろ準備も必要だろうし、それでなくても今月はあと十日足らずのこととて、正式な入門は来月六月からということになり、話は全て無事に終了したのであった。

「は〜やれやれ、まずはこれで第一関門突破ね。おめでとう、フランソワーズさん」
 家元宅の門を出た途端、大きく背筋を反らした御法がにっこりと微笑みかけてくる。フランソワーズもまた、幾分紅潮した顔でぺこりと頭を下げた。
「はい! これもみんな、おばさまや藤蔭先生のおかげです。ありがとうございました」
 だがそこで、御法の顔がふと真面目になって。
「ですがこれから、少しばかり忙しくなるかもしれませんね。実際のお稽古が始まるまでに揃えなければならないものもいろいろあるし」
「あ…やっぱり、着物とか帯とかですか? どうしよう…私、着物のことなんて全然わからない…」
「とりあえずは浴衣が一枚あれば充分ですよ。今はまだ時期外れですけれど、お若いお弟子さんたちの中には『体を動かすと暑くなる』って、一年中浴衣でお稽古なさっている方も大勢いらっしゃいますもの。もしよろしければ、聖とも相談して私どもの若い頃の浴衣と反幅帯を一揃い差し上げましょう。いきなり古着ではお気を悪くなさるかもしれませんが、初めて着付けをなさる方にはやはり、少し着慣れて生地が柔かくなったものの方が扱いやすいですからね。それに安曇流では毎年七月に、皆でお揃いの浴衣を仕立てるのが恒例なの。ですから、六月一杯は着付けの練習期間ということにして、七月に新しく仕立てる方を貴女自身の『最初の一枚』にしてはいかがかしら?」
 思いがけないその好意に、水色の瞳がまん丸に見開かれた。
「え…? そんな、とんでもないです! あ…いえ、決して古着が嫌だとかいうわけではありませんが、これだけお世話になった上に浴衣までなんて、あんまり…図々しすぎて…」
 しかし御法は、ころころと楽しげに笑っただけで。
「いえいえ、これもおばさんのお節介ついでですから、遠慮なんてなさらないでちょうだいな。ただ、肌着と裾除けと足袋、それに腰紐や伊達締め等の小物類はご自分で用意していただかないと…。できれば今月中に一日、空けて下さる? 私がお供致しますから、一緒に買いに行きましょう。それと、先程も申しましたが今はまだ浴衣の季節ではありませんから、面倒でもお稽古の後先にはきちんと着替えなければいけませんよ。そのためにも、まずは浴衣の着付けをしっかり覚えてちょうだいね」
 優しく穏やかなその口調が、最後の方だけちょっぴり厳しくなった。しかしそれは、御法がフランソワーズを正式な「妹弟子」として認めてくれた証拠かもしれない。そう思うと嬉しいようなくすぐったいような、そのくせ何とも身の引き締まる気分になって。
「はい! 私…一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します!」
 今度こそ一切の遠慮もためらいもなく、フランソワーズは再度ぺこりと頭を下げたのだった。
 


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