荒療治 4


 現金なもので、心の鬱屈が晴れた途端、肉体というやつは瞬くうちに元気を取り戻す。翌朝早くからすっきりと気持ちよく目覚めた藤蔭医師は、終始ご機嫌のまま車を出して養母を駅まで送り、帰りには近所のスーパーマーケットで山のような食材を買い込んできた。
 もう、障害は何もない。あとはひたすら、あの論文を完成させることだけを考えればいいだけ。そのためにはまず、腹ごしらえだ。
 家に帰りつくやいなや台所に飛び込み、買い物の包みの中からパスタにオリーブオイル、ニンニクと唐辛子、そして何種類かの野菜と卵、アンチョビの缶詰などなどを取り出し、早速料理にかかる。一時間もしないうちに、食卓にはおいしそうなペペロンチーノとシーザーサラダ、そしてガスパチョスープといったメニューが並んでいた。朝昼兼用のブランチとしても中々のボリュームと思われるそれらを全てきれいに平らげたあとは、いよいよあの論文の仕上げである。パソコンのキーを走る指の動きも軽やかに、気がついたときにはもう夕方。そして、論文の進捗状況は約三十パーセント。今日は実質午後だけしか使えなかったことを考えれば驚異的な成果だった。
(ふっふっふっ…今度こそ、邪魔するものは何もないわっ! この調子で行けば、明日の夜にはもう、完成よぉ)
 それでも一時机の前を離れ、浮き浮きと取りかかった夕食は、チキンのエスニック風ソテーときゅうり、きくらげの中華風和え物。ミスマッチのそしりは免れない組み合わせだが、今の藤蔭医師が一番食べたいメニューはこれだったのだ。どうせ今日は自分一人、ミスマッチだろうが食べ合わせが悪かろうが、遠慮しなければならない相手などいない。
(明日の朝は、中華風のお粥にしようかなー…香菜、束で買っちゃったし…あれ、意外と傷みが早いから、できるだけ早く使わないと食べられなくなっちゃう)
 そんな楽しい想像をめぐらせながらちょっとテレビのバラエティの一つも見て、それから後は再びパソコンとの共同作業だ。できれば今日中に全体の四十パーセントは終らせておきたい。今までの鬱憤を晴らすがごとく、藤蔭医師の指はひたすらキーボードの上を走り続ける。
 そして、どれだけの時間が経ったのだろう?
 突然、インターフォンが鳴った。はっとして時計を見れば、時刻はすでに午後十一時過ぎ。普通なら、誰かが訪ねてくる頃合ではない。藤蔭医師はかすかに眉をひそめ、しぶしぶといった体で机の片隅、インターフォン接続の電話に手をのばす。
「…どちら様ですか?」
 多少とげとげしい声になったのは仕方あるまい。こんな常識外れの時刻にやってくる方が悪いのだ。が…
(聖ぃ〜)
 受話器の向こうから聞こえてきたのはまたしてもあの、銀髪の少女の泣き声。藤蔭医師の全身が凍りついた。
(あの…こんな遅くにすみません。でも、クロウディアがどうしても藤蔭先生のところに行くって…)
(私たちの言うことも、全然聞いてくれないんです。…先生! 助けて下さい!)
 その場に硬直したまま言葉を失った藤蔭医師にさらに追い討ちをかけようとでもいうのか、今度はご丁寧にジョーとフランソワーズの声までもがおまけとしてくっついてきていた。

 そしてふたを…ではない、玄関を開けてみれば。門の外、夜の闇の中に所在なさげにたたずんでいたのはクロウディアとジョー、そしてフランソワーズと…その手に抱かれたイワン。半ば失神しかけながらも、藤蔭医師はとにかく門を開け、四人の少年少女を招き入れる。こんな夜中にこんな子供たちを外に出したままにしておくわけにはいかない。そんな、自分の「常識」がひどく恨めしかった。
 状況把握もできぬまま、とにかく四人をリビングに通し、蒸し暑い夏の夜のこととてよく冷やしたミントティーなどを出してやる。そして、自分もその向かい側に腰を落ち着け、事情を聞いてみたならば。
「仲直りが…決裂した…?」
 このとき、藤蔭医師の髪が真っ白にならなかったのは奇跡以外の何ものでもなかろう。体中の全細胞がボロボロと崩れ落ちていく幻覚に襲われ、意識が遠のきかけた女医の耳に、途方にくれた少年少女の声がかわるがわる届いてくる。
「今日、周とクロウディアがうちに遊びに来て…で…ほぼ一ヶ月ぶりに…アルベルトと…顔を合わせて…」
「初めのうちは、それでも和やかにいっていたんです。まあ、あんなことのあとで久しぶりに会ったんですから、多少のぎこちない雰囲気は…仕方なかったにしても」
「そのうちだんだんわだかまりも溶けたらしくていつもの二人に戻ったから、僕たちもすっかり安心して…たんです…けど…」
 こともあろうに、それが新たなる闘争の火種になったというのだ。
「多分二人とも、お互いずっと会いたいのを我慢してたと思うんです。…だから、ようやく会えた途端に、嬉しさのあまりタガが…外れちゃったんじゃないかと…」
 いつもの二人。それはすなわち絶対零度の会話、氷の視線の応酬。それでも平常時なら、お互いそれなりに程度やら手加減やらをわきまえていたはずなのに、一ヶ月ぶりの再会ですっかり舞い上がっていた今日は、そんなものは彼らの頭の中から完全に吹っ飛んでいたらしい。
 で、気がつけば絶対零度の会話は燃え盛る業火の舌戦に、氷の視線は太陽表面に吹き上がるプロミネンスそのものと化し―結局事態は一気に逆戻り、下手をすればそれ以上にこじれまくってしまったというわけ。ギルモア家のリビングで、逆上した二匹の猛獣さながらに睨み合う二人を見ているうちに、いたたまれなくなったクロウディアが家を飛び出し、慌ててそれを追ったジョーとフランソワーズ、そしてテレポートでくっついてきたイワンがようやく捕まえたものの、銀髪の少女は頑として戻ることを拒否し…そして、現在に至る。
「あたし、もうやだぁぁぁっ!!」
 どんな重金属よりも重く沈みこんだその場の空気をつんざいて、クロウディアの絶叫が全員の鼓膜をぶち破らんばかりに響きわたった。
「今度こそ絶対…絶対、家出してやるうぅぅぅっ! 家出して、聖んちの子になる! 聖と秀之の子になるんだぁっ!」
 そのまま盛大に泣き叫ぶ少女の言葉に、フランソワーズに抱かれていた赤ん坊のつぶらな瞳がきらりと光る。
(チョット、くろうでぃあ…! ソンナノズルイヨ! 君ニハチャントあるべるとト周ガイルッテイウノニ。君ガ藤蔭先生ノ子ニナルンナラ、ボクダッテナリタイヨ!)
「イワンには、ジョーとフランソワーズがいるじゃないのっ! いつも仲良しで、喧嘩なんてほとんどしたことなくて…なのに聖んちの子になるなんて、贅沢よっ!」
(ダッテ、じょートふらんそわーずハボクノ『親』ジャナインダヨ! コノ先自分タチノ子供ガ生マレタラ絶対ソッチノ方ガ可愛クナルニ決マッテル! くろうでぃあコソ、ホントウノ『親』ガイルノニ、贅沢ダ!)
「うわ…。やめろよ、クロウディア! イワン! 君たちまで喧嘩してどうするんだ!」
「そうよ! それにイワン、『自分たちの子供』って、どういうこと!?」
 一瞬のうちに一人の絶叫が四人分の喧騒に変わり、繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図。しかもそのうち一つは子供の声、甲高くよく通ることにかけては大人の比ではない。そればかりか、もう一つはイワンのテレパシー。藤蔭医師にとってはヘタな刃物や毒物よりも危険な凶器。例の共同研究が進むに連れ、互いの負担をかなり軽減したテレパシー交信の方法論も確立しかかってきたとはいえ、珍しくすっかり興奮したイワンには、そんな方法論もへったくれもあったものではない。
 そんな中にじっと座っているなど、藤蔭医師にとっては地獄以上の責め苦だったに違いない。いつのまにか彼女の顔からは表情が消え、瞳は焦点を失い、その頬も唇も蝋のように真っ白になっていた。だが、我を忘れた少年少女たちがそんな彼女になど気づくはずもなく、繰り広げられるのは収拾もつかないまま、激しさとやかましさを増していくだけの不毛な怒鳴り合い。と…。
「……ァ〜」
 破壊的な騒音をかいくぐり、ごくごくかすかな、しかし言いようもない不吉さと凶悪さをはらんだ悪鬼の呻きが聞こえたような気がして、四人の少年少女はぴたりと口をつぐんだ。声のした方をおずおずと振り向けば、そこには両肘を膝につき、がっくりとうなだれた藤蔭医師の姿。休日の、それも深夜ということでいつものシニョンではなくふんわりとほどかれた髪が垂れ下がっているおかげで顔は全く見えないが、その口元とおぼしいあたりからぎりぎりと聞こえてくるのは…不気味な歯ぎしりの音と、悪鬼の呻き、再び。
「あんの女(アマ)ァァァ〜っ!」
 ゆるゆると上がった顔の中、漆黒の瞳が異様なまでにぎらぎらと光っていた。
「じゃなかった、あの…バカップル! 大事な実の娘さんざん泣かせて、マゴや仲間を滅茶苦茶混乱させて、いつまで喧嘩してりゃ気がすむってんだい!! こうなったら、あたしにも覚悟があるからねっ!!」
 言い捨てると同時にぱっと立ち上がり、足音も荒くリビングを飛び出して二階に駆け上がった藤蔭医師。あっけにとられた少年少女も慌ててその後を追い―だが、二階にまでついていく勇気は誰にもなくて―、階段の下にひとかたまりになって不安げに上を見上げる。
 何だか、ひどく乱暴に部屋を片づけているような音がどたばたと聞こえていたのは、およそ十分間ほどだったろうか。
 再び階段を下りてきた藤蔭医師は、それまで着ていたジャージのルームウェアを洒落たデザインのカットソーとストレッチパンツに着替え、小脇にセカンドバッグを抱えていた。つい今しがたまで顔に乱れかかっていた髪にもきちんとブラシが入れられ、艶やかな光沢とともに背中に流れ落ちている。そして、再びリビングに戻った彼女が荒々しい音とともにテーブルの上に叩きつけたのは。
「一万円札…?」
「先生…何ですか…それ…」
 リビングの入り口から恐る恐る顔だけを覗かせたジョーとフランソワーズがやっとそれだけ訊ねる。
「貴方たち、悪いけど今夜一晩うちで留守番しててちょうだい!」
「え…?」
「この家のものは何でも好きに使っていいからね。食料品も、今日買出しに行ったばかりだから一通りは揃ってるはずよ。でも、イワンくんのミルクとか、もし足りないものがあったらあのお金で買っといて! 遅くとも、明日のお昼には戻るから!」
 言いながら、足音も荒く今度は台所へ。めまぐるしくあちこち動き回る藤蔭医師に、四人はもう、目を白黒させることしかできない。しかも、台所から出てきた彼女が担いでいたものといえば、今度は一升瓶。それも金箔入りということは、かなりの高級品だろう。あまりに脈絡のない行動に、目を点にした四人になどお構いなしに、美貌の精神科医は左手にセカンドバッグ、右肩には一升瓶を担いだ勇ましい格好のまま玄関に下り、華奢なミュールに履き替えたかと思うやきっぱりとこう、宣言した。
「私、これから周の家に行ってくる。こうなったらもう、どんな手を使ってでも仲直りさせてやるわ。…どんな手を使っても、よ」
 そう言ってにやりと笑ったその顔は、凄艶と言おうか壮絶と言おうか。背筋どころか頭の先からつま先まで冷たいものが走り、がちがちに凍りついた少年少女の目の前で藤蔭家の玄関は大きな音とともに閉まり、やがて、ガレージから車が出て行くエンジン音が、かすかに聞こえてきたような…気がした。

 


前ページへ   次ページへ   二次創作1に戻る   玉櫛笥に戻る