小夜時雨 4


 煕子の昔語りもいよいよ佳境に入ってきたらしい。おのずと、聴いているグレートの方にも力が入る。すっかり忘れ去られたグラスの中、溶け出した氷がかすかに涼しげな音を立てた。
「TVの仕事を始めたこと自体は、二人にとって大いに勉強になったはずです。何より、TV業界にだって時間その他のいろいろな制約の中、少しでもいい作品を作ろうと懸命に努力している人たちがたくさんいると知ったときには、良い意味でかなりショックを受けたのではないでしょうか。それ以後はかおりも彼も自分たちの偏見を深く反省し、誰よりも熱心に、真摯に仕事に取り組むようになりました。となれば当然その態度にも好感が持たれ、『次の作品にも是非』と望まれることも多くなります。結果、良心的なスタッフや優れた役者陣に囲まれ、二人の行く手は順風満帆、何の障害もないように見えました。ですがそうやってTVとの縁が深まって行けば行くほど―」
 言葉を切った煕子の、どこか意味ありげな視線。
「かおりと彼―ご主人との個性の違いがくっきりと際立つようになってしまったんです」
「え―?」
 怪訝な表情を浮かべたグレートに、藤蔭医師がとりなすように言い添えた。
「いえ、決して才能の差だとか優劣だとかいうことではありません。ただ…」
 一瞬伏せられた漆黒の瞳。だが次の瞬間その視線はきっぱりと上がり、真っ直ぐにグレートを見据えて。
「要するにかおりは女優としても脚本家としてもTVより舞台向きであり、逆に彼の方は舞台よりもむしろTV向きの人材だったということです」
 そこでまた、語り手が煕子に変わる。
「演技にせよ脚本執筆にせよ、かおりはじっくり時間をかけて仕事に取り組むタイプです。一方の彼はというと、アイディアを出すまでにこそ多少時間がかかりますが、一度構想が固まりさえすればどんなに長い作品でも一気呵成に書き上げてしまえる人。たとい実力が互角でも、仕事の速さというのはやはり無視できない問題ですものね。…特に、TV業界においては」
 その言葉にグレートも大きくうなづいた。上演時間二、三時間の芝居に数ヶ月の準備・稽古期間をかけられるのも舞台ならでは、TVドラマの製作現場ではとてもそうはいくまい。無論、舞台同様―いやそれ以上の時間をかけて製作されるものとて決して少なくはないが、TVドラマの「制作期間」には舞台にないロケの移動時間だの編集作業にかかる時間だのがしっかり含まれている上、撮影だってどんどん進められていくわけだから―そのスケジュールは舞台よりかなり厳しいものになるだろう。…成程、それでは確かにかおりの方が少々分が悪い。
「もっとも、元々脚本一本でやってきた彼と違ってかおりは女優との兼業ですし、事実そちらの方が知名度も高かったわけですから、TVの世界では女優としてのみ勝負するんだと本人も割り切っていました。むしろ、より問題だったのは『女優としても舞台向き』ということで…。稽古はともかく初日の幕さえ開けば最初から最後まで脚本の順番どおりに演じられる舞台と違って、TVや映画の場合は必ずしも冒頭のシーンから撮影するとは限りませんでしょう。時には共演者との顔合わせをしたばかりだというのにいきなりクライマックスシーンを撮ったりすることもあります。それが、長いこと舞台専門で、芝居の進行とともに徐々に自分の気持ちを盛り上げていくやり方に慣れたかおりにはかなりの負担だったらしいんですね」
 小さなため息。
「もちろんあの子だってプロですもの、そんな言い訳が現場で通るはずもないことはよく知っていましたし、事実TVでも舞台同様、いえ、それ以上の演技をこなしていました。ですがその間のストレスや心労もまた大変なものだったらしくて、やがてとうとう体調を崩し、入院しなくてはならないことに…で、見かねた彼が一つの提案を出したんです」
「提案?」
「はい。『女優の仕事を少し休んで、新劇団設立の準備を始めてはどうか』と…。実のところ、やや時期尚早ではありました。特に…あの、資金の方がまだちょっと不足していて…。そんなときにかおりが休業したりしたら、残りは全て彼が工面しなければならなくなってしまいます。ですが、それでも彼はしばらくの間かおりをTVよりも舞台に近い場所に戻してやりたかったのでしょう。それに彼自身はやはりTV業界の方が性に合っていたのか、随分と名前も売れてきて収入も上がっていましたから…」
 「残りの金は俺が稼ぐ。だから君は何も心配しないで劇団設立に全力を尽くしてほしい」―そう言って、彼―かおりの夫は胸を叩いたそうだ。
「最初はかおりも悩んだようですが、やはり仕事に少々疲れていたのか、最後にはその提案を受け入れました。それからは体の方もどんどん良くなって―長年の夢がいよいよ実現するんですものね―退院と同時に、張り切って行動開始したんです」
 多少の不安を抱えての出発だったが、いざ始めてみれば全てが順調に進んでいった。二人の夢を知る人々からの協力、かおりたちの実績に憧れて入団を希望する若者たち、加えてそれからすぐ、かおりの夫が書いた連続TVドラマが大ヒット、映画化されるという幸運まで手伝って、一年後にはめでたく新劇団「たまゆら」が誕生したわけだが…。
「設立当初から『たまゆら』に期待する人々は大勢いました。ですがどんなに前途有望な、それも商業劇団とはいえ最初から採算が取れるはずもありません。実際、その後数年間は赤字続き…。その穴を埋めるためさらに仕事を増やした彼は、劇団に関わる時間はおろか食事や睡眠すら満足に取れないほど忙しくなってしまい、劇団運営は全てかおりが引き受けなくてはならなくなりました。毎日の稽古や各種事務、公演のためのスポンサー探しや劇場との交渉、それから脚本執筆―TVその他の仕事で手一杯の彼には、どう頑張っても劇団のための脚本を書く時間など取れませんでしたから―これではかおりにだって息つく暇さえありません。かおりも彼も、毎日不眠不休で働き続ける夫や妻をどんなに心配したことでしょう。ですが自分の方も同じように―いえ、もしかしたらそれ以上に仕事を抱えている状況では、お互いどうしてやることもできなかったんです」
 ふと言葉を切った煕子が、自分のグラスを取り上げて一息に飲み干す。そして心なしかきつい口調でバーテンに二杯目を頼み、やがて目の前に置かれた新しいグラスをも一気に空にした後で。
「支えてやりたいのにそれができないもどかしさ、支えてほしいのにそれをしてもらえない淋しさを伝えあう時間すらないまま、溜まっていくのは疲労ばかり…そんな日々が続いたら、誰だってどうにかなってしまいます。やがてもどかしさは苛立ちへ、淋しさは不満へと少しずつ形を変えていきました。そして、ある日とうとう爆発してしまったんです」
 かおり夫婦にとってはほとんど初めての喧嘩だったそうだ。
「彼の不満は『たまゆら』の運営に自分がちっとも関われないこと。…確かに、設立時点で役割分担を提案したのは彼ですし、事実そうしなければ『たまゆら』の誕生はさらに数年遅れていたでしょう。ですが彼としては、その後は少し自分の仕事を減らし、かおりにも復帰してもらって資金の調達と劇団運営を共同でやっていきたかったんです。なのにいつまでたっても状況は変わらず、一応主宰者として名前だけは劇団に登録されているものの実際に団員を指導したり劇団のための脚本を書いたりすることなどほとんどできないのが現実。これではまるで『自分たち二人』のではなく『かおり一人』の劇団ではないか、自分はただ運営資金を稼ぐだけの金づるに過ぎないのかと…。でも、それこそまさにかおりの不満でもあった。設立後の劇団運営を二人で一緒にやりたいのはかおりだって同じだったし、女優として復帰したいという気持ちだってありました。何より、劇団の仕事一切をたった一人でこなさねばならないことがどんなに心細くて不安だったか…本当はあの子だって彼に助けてほしかったんです。けれど、今やTV業界で引っ張りだこになってしまった彼には、自分の都合で仕事を減らすなど不可能でした。有名になればそれだけ義理やしがらみも増え、どうしても断れない依頼がくることだってありますもの。そんな彼にこれ以上負担をかけるなんて絶対にできないって、かおりも必死に我慢してたんです。なのにそんなふうに言われたらあの子だって立つ瀬がありません。ちょっとした諍いはやがて激しい怒鳴り合いとなり、およそ一晩続いたそうです。それでもそのときは言いたいことを言い合って少しは発散できたのか、一応仲直りしたんですけれど…。以来二人は些細なことでしょっちゅう言い争うようになってしまいました」
「うーむ…それは…。何だかナァ…」
 沈痛な面持ちで目を伏せた煕子に、グレートはそれ以外の言葉をかけてやることができなかった。確かに、それぞれの言い分はよくわかる。だが…。
「もちろん、かおりだって彼だって、そんなことは全部わかっていました。そればかりか、彼が劇団設立を急いだのはストレスで体調を崩したかおりを心配したからだということも、かおりが女優を休業してつきっきりになっているからこそ劇団が順調に活動を続けていられることも、みんな―。だけど仕事に追われて疲れ果て、ぼろぼろにささくれた心がそれを素直に認められなくなってしまっただけなんです。…それだけなんです!」
「…煕子」
 アルトの声が静かに友人の名を呼んだ。途端、煕子がはっと口元を押さえる。
「…ごめん、聖。私、少し興奮しすぎちゃったみたい」
「ううん、あんたの気持ちはよくわかってるから。だけど…大丈夫?」
 心配そうな漆黒の瞳にうなづいた煕子のネックレスがかすかな音とともにきらめく。そしてもう一度、今度はグレートに「申し訳ありませんでした」と頭を下げて。
「やがて『たまゆら』がどうにか―まぁ、ギリギリのレベルではありましたけれど―自力で活動できるようになった頃には、二人の仲はすっかり冷え切っていました。けれど元はといえば相手を思う気持ちが運悪くすれ違ってしまっただけですもの。本心では仲直りを望んでいないはずがありません。何とかそのきっかけをつかもうとした二人はその年の『たまゆら』定期公演の脚本を共同執筆することにしたんです。その頃には彼にもようやく時間の余裕ができてきましたし…ただ、一人で全てを書き上げるにはまだ少し無理がある、だったら一緒にやってみようとどちらからともなく言い出して、早速執筆に取りかかりました。それが―」
「あの『クリムゾン・ローズ』だったわけですか…」
 グレートは、大きく息をついた。「随分と若い頃に、しかも共同執筆した作品」ということは最初からかおりに聞いていたが、その誕生の裏にこんな深刻な経緯があったとは…。何ともいえぬやるせなさに再びため息をついたとき、不意に藤蔭医師のアルトが響いた。
「…グレートさん、先に電話でおっしゃっていた『かおりがどうしてもできない場面』というのは第三幕第三場、ローザとベルガーの言い争いの場面ではありませんか?」
 その質問の意味を、一瞬グレートは理解できなかった。…が、すぐに思い出す。ローザとはかおりが演じるヒロインの、そしてベルガーとはあの悪役、横流し商人のドラ息子の名前だったと―。
「は、はい、おっしゃるとおりです、藤蔭先生」
「そう…ですか。…やっぱりね」
「え…?」
 どういう意味かと訊ねるよりも、煕子の方が早かった。
「二人ともプライベートの一切を忘れ、プロに徹して少しでもいい作品を書き上げようと努力しました。…いえ、努力しようとしたんです。けれど、それまでのわだかまりの全てを捨て去ることはかおりにも彼にもできませんでした。途中で意見が対立して議論にでもなれば、ついつい感情的になって過去の喧嘩を思い出してしまう…しかしそれを口に出したら最後だと自分を抑えつければ抑えつけたで、行き場のない思いが主人公始め、登場人物の台詞となって原稿用紙の上に吐き出されていくばかり。これではまるで脚本(ほん)の中で代理戦争をしているようなものだと気づいた彼は二人の仲に完全に絶望し、脚本完成と同時にひっそり家を出て行きました。別れの言葉も置手紙すらもなく、ただ―第三幕第三場、ローザとベルガーの言い争いの場面に大きく朱を入れて―。何でも、台詞の最後の部分がかつてかおりと彼が実際に言い争った言葉に直され、そのページには署名、捺印した離婚届がはさんであったとか。…かおりは彼を追いませんでした。そして彼も、二度とかおりの元に帰ってくることはなかったんです」
 語り終えた煕子がほうっと大きく息をつく。その様子を見ていた藤蔭医師が無言で自分のグラスを取り上げ、中のオンザロックを一口飲んだ。そして―。
「結局、脚本としてはかなりの完成度を持っていたにもかかわらず、『クリムゾン・ローズ』はお蔵入りになりました。どんなに優れた作品であれ、あのときのかおりにはとても演じることができなかったんでしょう。…でも、ね。グレートさん。私、かおりは決して心底から彼のことを嫌いになったわけじゃないと思うんですよ。…え? 『能力』なんかじゃありませんわ。今回、かおりがあれを全部書き直したと伺ったとき、ピンときたんです。演るのがそんなに辛い芝居、だけど今はそれしかないと仕方なく書き直したのなら、いっそ台詞も全部変えてしまえばよかったでしょうに。そうすれば、少なくとも演技の途中で言葉が出なくなってしまうような羽目にはならなかったはずです。なのにこんな事態になってしまったのは、彼が朱を入れたローザとベルガーの台詞をどうしても変更できなかったからではないでしょうか。何故ならそれは自分と彼が実際にぶつけ合った本音、何よりも彼が残した最後の思いですから。…もっとも、煕子や私は実際にその脚本を読んではおりませんので、単なる推測に過ぎないのかもしれませんけれどね」
「え、いや、単なる推測などとは…実は我輩も、そんな気がしておるところでして」
 言いつつ、グレートの肩ががっくりと落ちた。…あの日、稽古場で真っ赤になった拳を床に叩きつけていたかおりの姿が脳裏に蘇る。…何とか、助けてやりたかった。演技ができないその理由さえわかれば解決の糸口もつかめると信じていた。しかし、いざ全てを知ってみれば―。
(畜生! これじゃぁ結局、ことの難しさをますます思い知らされただけじゃないか!)
「…グレートさん?」
 名前を呼ばれてはっと顔を上げれば、両側から藤蔭医師と煕子が不安げな表情でこちらを見つめている。
(…いかん。俺はともかく彼女たちをこれ以上心配させるわけには…。二人とも、俺がかおりの力になれると信じたからこそ、全てを隠さず話してくれたというのに…!)
 今こそ役者の意地を見せずしてどうする。拳をぎゅっと握り締め、グレートは一瞬にして洒脱な英国紳士の表情を取り戻した。
「…左様でしたか。お二人もお辛かったでしょうに、よくぞ話して下さいました。しかしこのグレート・ブリテンが全て承知したからにはもう大丈夫ですぞ。あとは全て我輩にお任せあれ」
 どん、と胸を叩けば、二人の顔にもようやく安堵の笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます、グレートさん。貴方のような方がいて下されば、かおりもさぞ心強いことでしょう」
「私どもの分までどうか、あの子を支えてやって下さい。よろしくお願い致します」
 感謝と信頼に満ち溢れたそれらの言葉にちくりと心が痛まないではなかったが、それでもグレートは余裕に満ちた表情を必死に保ち続け、さらに一時間ほど二人の美女とともに大いに談笑し、グラスを重ねていったのであった。



 店を出たのはすでに十一時を回った頃だろうか。
「今夜は本当にどうもありがとうございました。こちらは我輩からのささやかな御礼です。どうぞ、お受け取り下さい」
 丁寧な礼とともに差し出したのは、両手のひらに乗せてしまえそうな小さな紙袋が一つずつ。中身はパリでも一、二を争う高級菓子店―もちろん、フランソワーズの折り紙つきだ―のチョコレート、ただしその中でも一番小さい四個入りパッケージである。最高級の品を選びつつも受け取る側に気兼ねさせない程度の量に抑えたところはさすが、グレートならではの心配りであったろう。実際、初めのうちこそ何やかやと遠慮していた二人も、しまいには華のような笑顔で快く受け取ってくれた。
「あと、こちらは今夜お留守番の大役を立派に果たしてくれた、可愛らしくも切れ者のワン殿に」
 次いでポケットをまさぐったグレートがもう一つの「お土産」を取り出せば、藤蔭医師の瞳が大きく見開かれる。
「まぁ、グレートさん、それは…!」
「左様。かのワン殿一番のお気に入り、毛糸玉型ボールおもちゃです。しかし先日、残念ながら壊れてしまったとちょいと小耳に挟んだもので」
「そうなんです! もううちの子ときたら毎日毎日そればっかりで遊んでいて、とうとうかじりすぎて大穴を開けてしまいましたの。私どももあちこち探し歩いたんですけれど、あいにくすでに製造打切になってしまっているらしく…」
「ははは…先日我が家にお越しになった折にもワン殿、すっかりしょげかえってうちのイワンに随分愚痴をこぼしていたようですからナァ。我輩も少なからず同情しておりましたところ、たまたま今夜こちらへ伺う途中見かけたペットショップでワゴンセールをやっておりまして…それはもう、一個五十円だか百円だかの叩き売り状態でしたが、ふと思い出して引っかき回してみれば何と、このお宝を発掘したというわけですよ」
 そしてつと藤蔭医師の手を取り、白くて華奢なその手のひらに件の包みをぽとりと落としこんで。
「そのときは我輩も急いでおりましたし、ラッピングをしてもらうこともできず…正直、麗しきレディに差し上げるには無粋極まりない、失礼とも言うべきシロモノではありますが、不肖このグレート・ブリテンの、かのワン殿への気持ちと思し召してどうぞお収め下さいますよう…」
 口上の最後を飾ったのは完璧なる騎士の礼と空いたもう一方の手の甲への口づけ。藤蔭医師の頬にもぱっと嬉しげな朱が浮かび、煕子がはしゃいで友達の肩を叩く。
「まぁ、グレートさん…失礼なんて、とんでもないことですわ! ありがとう…本当にありがとうございます!」
「よかったねぇ、聖。ワンちゃん、喜ぶよぉ〜」
 再度深々と礼を交わし、手を振りながら家路についた藤蔭医師と煕子は、今や完全な二人きりとなったこととてすっかり女子高生時代に時を戻してしまったようである。
(…そー言えばあたし、まだお宅のワンちゃんに会ったことないんだよね〜。ねぇ、一度会わせてよぉ)
(そりゃもういつでも! だけどあんた、休み取れんの? あたしは何だかんだ言ったって基本的には土日休みだからいーけどさ、そっちの方はそーもいかんでしょぉ?)
(へ〜ん、自由業をナメんなよ〜だ。休みくらいいつでも取っちゃるわいっ! …とにかく今度電話するからさ、おばさんにもよろしく言っといてね!)
 楽しげな会話が風に乗って切れ切れに耳に届いてきても、グレートの顔にもう笑みはない。…もはや今宵の幕は下り、観客の姿もスポットライトも消えたのだ。そして、洒脱で頼もしい英国紳士を完璧に演じきった名優もまた、如何ともし難い難問を抱えて思い悩むただの男に戻り―やがてくるりときびすを返して、たった一人夜の中に消えて行ったのである。
 


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